【My Girl】 692氏 「ユリウスのバカ!」  甲高い叫び声と共に、乾いた音が響き渡る。  一瞬、格納庫から人の声が途絶えた。  機械の唸りだけが空気を震わせる中、人々は先ほどの叫び声の出所を目で探る。  彼らの視線が集中した先に、ユリウス・フォン・ギュンターを平手打ちした格好のままのカチュア・リィスが、目に涙を溜めて立っていた。 My Girl 「で、原因は何なんだよ、プレイボーイ」  からかうような声が、頭上から聞こえてくる。屈みこんでいたユリウスは、振り返ることもなく道具箱の整理を続ける。 「おいおい、無視するこたないだろ、色男」 「僕はそんな変な名前じゃありません」 「何言ってんだ、女泣かせ。全く悪い男だねえ、あんな可愛い子、大勢の前で泣かせるなんてさ」  言葉の内容も声の調子も実に軽く、不愉快だった。これ以上は反応しないようにしよう、と心に決めて、ユリウスは黙々と手を動かす。 「だから無視すんなよな女たらし」  無視無視、と心の中で呟く。反応さえしなければ、その内飽きて帰るに違いない。 「つれないねえスケコマシ。しかし、そんな年で女の子泣かせてるようじゃ」  少し、間があった。何をするつもりかと心の中で警戒した瞬間、耳元で囁かれた。 「将来、俺みたいに」 「絶対なりません!」  ほとんど反射的に、ユリウスは立ち上がって叫んでいた。しまった、と思ったときにはもう遅く、目の前にサエン・コジマのにやけ面が。 「ははは、ようやくまともに反応したなドンファン。さあて、事情を話してもらおうか」  サエンは誘うような仕草で中指を動かしてみせる。ユリウスはサエンを一睨みしたあと、そっぽを向いてまたしゃがみこむ。背後からサエンのため息が聞こえた。 「冷たいねえカサノバ。別にからかおうってんじゃないんだぜ」 「笑いものにしようって言うんでしょ」 「被害妄想だよそりゃ。アドバイスしてやろうってんだよ、遊び人の先輩としてさあ」 「女性に嫌われるコツをですか」 「嫌味な奴だなお前」  しかめ面が想像できるような渋い声で言ったあと、サエンは不意に屈みこんで、横からユリウスの顔を覗き込んできた。 「で、実際何があったんだよ」 「なんであなたなんかに」 「手助けぐらいは、できるかもしれないぜ」  ユリウスは横目でちらりとサエンの顔を見やる。少なくとも、表情は真剣なようである。  この人はときどき真面目なんだよな、と内心ため息を吐きながら、ユリウスは話し出した。 「別に、大したことじゃないんです。カチュアに頼まれごとをされて、断ったってだけで」  サエンは驚いたように目を見張った。 「珍しいな。いつもは何でも引き受けてたじゃないか。それこそパシリみたいなことまで」 「断る権利はありますよ。サエンさんが罰を受けてるような場合と違って」 「おい。まあいいや。で、その頼みってのはどんなだったんだよ。裸になれとか」 「そんな発想はサエンさんしかしません。ついでに、カチュアには僕の裸を見て喜ぶような趣味はありませんよ」 「貧相だもんなお前。それで」  ユリウスは、ちらりと肩越しに後方を見やる。壁際に並べられたMSハンガーの列の何番目かに、カチュアの機体であるキュベレイMKUが納められている。その足元に、カチュアと担当整備兵のケイ・ニムロッドがいるのが見えた。 「変わってくれって言われたんですよ」  不機嫌そうな顔でケイの説明を聞いているカチュアを見ながら、ユリウスは言った。 「ケイさんと」 「つまり、お前に機体の整備を任せたいって言ってきたわけか」 「そういうことです」  ユリウスが頷くと、サエンは腕組みして首を傾げた。 「なんで断ったんだ。お前未だに雑用だろ。カチュアにいいところ見せるチャンスじゃないか」 「だからこそ、駄目なんですよ」  ユリウスは、自分の手の平を見下ろした。数ヶ月前に比べて、汚れが目立つようになってきた気がする。雑用ばかりやらされたせいで、肌自体が荒れ放題だ。 「僕は、ここに来るまで自分は天才だと思っていました。だけど、実際はそうじゃなかった。いや、確かに人よりうまくできる部分もあるけど、ここには僕じゃ敵わない人たちがたくさんいる」  ユリウスの脳裏を、数人の顔が横切る。  長年の経験により培われた勘で、ハード面の不良ならほぼ確実に直してしまうダイス・ロックリー。  奇抜な発想による急造兵器で、数々の危機的状況を打開してきたライル・コーンズ。  機体の整備はもちろん、パイロットの精神的なケアも得意なケイ・ニムロッド。  彼らを見ると、ユリウスは嫌でも思い知らされる。自分は知識だけの頭でっかちでしかないということを。 「カチュアのキュベレイは、ファンネルなんていう繊細な武器を持つ機体です。僕みたいな未熟者が、うっかり整備不良を起こしたりしたら」 「ま、確かにやばいだろうな」 「だから、断ったんです」 「なるほどねえ」  サエンもまた、カチュアとケイの方を見て目を細めた。それから、普段とは打って変わって静かな口調で言ってくる。 「でも、そんなことぐらいカチュアだって分かってんじゃないの」  ユリウスがサエンを見上げると、サエンは腕組みして向こうを見ていた。カチュアは、説明を聞き終えて二階に上っていくところである。 「分かった上で、それでもユリウスに機体整備してほしいってんだろ、カチュアはさ」 「でも」 「そんな難しく考えんなって。好きな子のためだ、ちょっと頑張ってみるのもいいんじゃないの。駄目だったら人に頼ればいいんだしさ」  ユリウスは、サエンの言葉を数回脳で反芻した。  どう考えても、客観的には間違っているはずだ。半人前が機体の整備を受け持つことも、分からないことばかりで人に頼ってばかりで、かえって迷惑をかけてしまうことも。  だが、ユリウスはその内、無言で作業服のポケットの中をまさぐっていた。  そして、携帯電話を取り出し、震える指先でメールを打つ。  送信する前に一瞬だけ躊躇したが、思い切ってボタンを押し込んだ。 『ケイさんのサポートとしてなら、引き受けてもいい』 「また控えめな文面だねえ」  後ろから画面を覗き込んだサエンが、にやにや笑いを浮かべている。 「謙虚だと言ってほしいですね」 「確かにね。お前、ホント昔と違って大人しくなったよなあ」 「成長してるんですよ。サエンさんと違ってね」 「その憎たらしいところも直せよな」  サエンと軽口を叩きあいながらも、ユリウスは内心、かなり緊張していた。  自分の判断を、カチュアがどう受け取るか。想像するだけで喉が渇いてくる。  そのとき、艦内通路へのドアを開きかけていたカチュアが、ポケットから携帯電話を取り出したのが見えた。 「お、気付いたぜ。良かったな、タイミングバッチリじゃないか」  サエンが期待に満ちた声で囁く。ユリウスは返事をしなかった。いや、できなかった。鼓動が最高潮に達し、それどころではなくなっていたのだ。  カチュアは、携帯電話の画面を覗き込んだまま立ち止まっていた。  おそらく返事を打っているのだろう、とユリウスは推測する。彼女の返事はどうか、と携帯電話をつぶさんばかりの勢いで握り締め、ただ待つ。  しかし、カチュアは予想外の行動に出た。  突然こちらに振り返ると、うるさく靴音を鳴らしながら二階の手すりに飛びつくと、こちらに向かって飛び出さんばかりに身を乗り出したのだ。  カチュアの顔は、満面の笑みを浮かべていた。その表情のまま、カチュアは大きく口を開く。 「ユリウス!」  格納庫全体に響き渡るほどの、大きく甲高い声。  今度は何だと、また格納庫中の人々が二階のカチュアを仰ぎ見る。  ユリウスは何も答えなかった。いや、あまりの事態に何をしていいのか分からなかった。 「あのねー!」  そうやってユリウスが迷っている内に、カチュアはあの阿呆に見えかねない全開の笑顔のまま、先ほどよりももっと大きな声で叫んだ。 「大好きいいいいぃぃぃぃぃっ!」  その声は、まるでエコーがかけられているように反響し、何度も何度も繰り返し響き渡る。  奇妙な沈黙が、格納庫全体を覆い隠した。皆、何かに期待するかのような表情でユリウスを見ている。  機械の唸りだけが空気を震わせる中、ユリウスは呆然とカチュアを見返していた。  カチュアは満面の笑顔のまま、何かに期待するような眼差しを一心にこちらに向かって注いでいる。  隣に立っていたサエンが、ユリウスの肩を叩いて言った。 「で、お返事はいかがかな、幸せ者」  サエンの一言で、ユリウスは何とか思考停止状態から解放された。  とは言え、返事と言われても何を言えばいいのだろう。普段ならば的確な答えを教えてくれる天才的頭脳は、まるでエラーが連続で発生しているかのように意味のない言葉しか弾き出してくれない。  混乱するユリウスの耳元で、サエンが囁いた。 「悩むな悩むな。要するに正直に言えばいいんだ、正直に」  迷いに迷ったユリウスの思考は、その言葉に単純に飛びついてしまった。  そう、正直に言えばいいのだ、正直に。 「そんなこと言って!」  自分が何を言っているのか、自分でもよく分からないままに、ユリウスはただ口を開けて無我夢中で叫び返した。 「僕の方が、もっと好きに決まってるだろおおおおぉぉぉぉぉ!」  叫んでしまってから、ユリウスはようやく我に返った。  自分が何を叫んでしまったのかと認識するにつれて、凄まじい勢いで顔面に熱が上ってくる。 「いや、ちょ、今のはなし」  両手を振って言いかけたところで、格納庫の至るところから、爆音のような拍手と歓声が沸き起こった。 「いいぞー!」 「よく言ったユリウス!」 「尻に敷かれんなよー!」 「おめでとうカチュア!」 「いいなー、あたしも言ってもらいたーい!」  無責任で能天気な歓声に包まれながら、カチュアは満面の笑顔を少し赤くして、また叫び返してきた。 「あたしはもっともっと好きいいいいいぃぃぃぃぃぃ!」  半ばヤケクソで、ユリウスも叫び返す。 「じゃあ僕はもっともっともっと好きだあああああぁぁぁぁぁ!」  負けじとカチュアも叫び返す。 「それならあたしはもっともっともっともっと好きいいいぃぃぃぃ!」  まだ言うか、とユリウスは声を嗄らして叫び返す。 「だったら、もっともっともっともっともっと」 「その辺で止めとけよユリウス」  サエンが必死に笑いをこらえながら、ユリウスの肩をつかんできた。 「お前がカチュアのことを心の底から大好きだってのは、俺を始めここにいる皆さん全員にも十分伝わったからさ」  周囲を見回すと、格納庫にいた全員が、にやにやした顔で遠巻きにユリウスを見ていた。  全身がむずがゆい様な居心地の悪さを感じたユリウスが、ふと二階を見上げると、いつのまにかカチュアの姿が消えていた。  一体どこに、とユリウスが困惑したとき、まだ握り締めていた携帯電話が唐突に震え出した。  慌てて画面を覗き込むと、そこにはこんな一言が。 『ありがとう。これからもよろしくね』  何度も何度もその簡単な文面を読み返したあと、ユリウスは急激に脱力感に襲われて、床にへたり込んだ。 「最初からこっちで済ませてくれよ」  やるせないユリウスの呟きに答えたのは、格納庫にいた人々の口笛と軽口だけ。ユリウスはため息を吐いた。 (まあ、いいか)  これまで以上に騒がしい日々がやってくる予感に辟易しながらも、そう悪い気分でもないユリウスだった。