【ある姫君の暴走】 692氏  「ねねねねね、ネリィー! 安全運転、安全運転ーっ!」  シートに跨るネリィの腰に必死でしがみつきながら、ジュナスは悲鳴を上げる。  「っていうか今轢いた! 誰か踏み潰したってば!」  「おほほほほ、ついに見つけましたわアンチクショウ! 粉砕粉砕木っ端微塵になりやがってくださいましぃぃぃぃ!」  ネリィが高笑いを上げる。瞳は前方の幽霊バイクだけをとらえ、ジュナスの声など聞いてもいないようだ。アドレナリンが精神を高揚させているのか、表情から恐怖が完全に消えうせていた。あるのは野獣のような凶暴な笑みだけだ。  「お、おっかねー……」  頬を引きつらせながら、ジュナスが呟く。ネリィはちらりとジュナスを振り返り、  「ジュナス、手伝いなさいな。私のサポートをするために乗り込んだのでしょう?」  「いや、止めるためなんだけど」  「つべこべ言わずに、さっさと奴を吹き飛ばすのです」  「どうやってさ?」  「あなたの足元に武器がついているでしょう?」  「武器?」  ジュナスは慎重にバランスを取りながら、自分の足元、つまりは車体の中央部を覗き込む。そして沈黙した。  「どうなさいました? さぁ、早くおやりなさいな」  「その前にさ。これ、何?」  「超小型ミサイル発射装置ですわ」  ネリィはさらりと言う。ジュナスは怒鳴り返した。  「何でそんな危ない物装備してんだよ!?」  「こんなこともあろうかと、ですわ」  「場所考えろ、こんな物使ったらどうなると思ってんだ!?」  「あの忌々しい腐れバイクごと、半径約10mほどが跡形もなく吹き飛ぶでしょうね」  「えらく具体的だなオイ。っつーか、こんな家が一杯あるところでそんな物使える訳ないだろ!」  「些細なことに拘っていては大儀は成し遂げられませんわ」  「些細か、些細なのか、これ!? ついでに大儀もクソもないし!」  「何を申されますの? この私ネリィ・フォン・クォーツを侮辱し、その誇りを地に落とした罪に相応しい報復を行う! これ以上ないぐらいに立派な大儀ではございませんか!?」  「あーもう何ていうか何ていうかだなぁっていうかもうどうにでもなれチクショウ」  ジュナスはやけっぱちになって叫んだ。  夜の街を当てもなく彷徨っていたシャロンは、ふと足を止めた。無言で周囲を見回す。誰もいない路地裏はひっそりと静まり返っていた。シャロンはそっと服の中に手を差し入れ、、首から下げていたロケットペンダントを開く。中には、一人の女性の写真が収められていた。  「……母様」  ぽつりと呟き、思い悩んだ表情で、そっとロケットを口元に持っていく。そのまま口づけしようとして、シャロンは躊躇った。まるで、恐れ多いことをしようとしているかのように。結局、シャロンはロケットペンダントを額に押し付けた。祈りを捧げるように、目を閉じる。  「母様。シャロンは少しでも母様のお役に立てるよう、異国の地で努力しております。もしも許されるのでありましたら、この矮小で哀れな存在に慈悲の微笑を与えてくださるよう……」  深い夜の静寂に、弱弱しい言葉が染み渡っていく。そのとき、シャロンはふと、訝しげに顔を上げた。ロケットを大事にしまいこみ、息を殺して耳を澄ます。聞き慣れない爆音と共に、誰かの悲鳴が聞こえる。それ程遠くはない。壁の向こうから、徐々に迫ってくる。  「上!?」  シャロンは咄嗟に、顔を上に向けた。そして、何か二つの黒い影が、家の屋根を飛び越して空を舞うのを見た。一つ目の影は反対側の家も飛び越したが、二つ目の影は空中で失速し、こちらに向かって落ちてくる。シャロンは咄嗟に飛びのいた。影はその場所に降ってくる。  「バイク……!?」  人を二人乗せたバイクだ。着地の衝撃に耐えきれず、後ろに乗っていた少年……ジュナスが、勢い余ってバイクから落ちる。尻を地面に打ち付けて悲鳴を上げる彼に気付かぬように、前の女がバイクを加速させ、曲がり角の向こうに消えていった。その女の、風になびく金色の髪を見て、シャロンは目を見開いた。  「いててて」  尻をさすりながら、ジュナスが身を起こす。バイクが走り去った方向を睨むように見ているシャロンに気付くと、慌てて走りよってきた。  「うわ、人がいたのか。大丈夫かい君、どこか怪我は……」  シャロンは無反応だった。ジュナスは怪訝そうに眉をひそめ、  「どうしたの? ねえ、君……」  ジュナスは心配そうな表情で、手を伸ばしてくる。シャロンはハッとして、その手を払いのけた。驚くジュナスに、一歩身を引きながら言う。  「……気安く触れないでくださいます?」  「あ、うん、ごめん」  混乱した表情で、ジュナスが頷く。しかし、すぐに気を取り直し、  「や、やっぱ怒ってるよね? ホントごめん、まさか屋根を飛び越えようとするだなんて思ってなくてさ……」  弁解するジュナスを、シャロンは冷徹な目で睨み、  「あら、言い訳なさるのかしら?」  「い、いや、そうじゃないんだけど! でも、運転してたの俺じゃないし……」  その言葉に、シャロンは感情を抑えた声音で、  「では、どなたが?」  「え?」  「どなたが運転を?」  「え、そりゃネリィが、って言っても分かんないよなぁ」  ネリィ、という単語以外、シャロンはほとんど聞いていなかった。顔を憎悪に歪め、ぎりっと歯を噛み締める。  「そう、やはりあの女が……こんな近くに……!」  「え? なに?」  ジュナスがきょとんとする。シャロンはジュナスをキッと睨みつけ、  「あなた」  「は、はい!?」  思わず直立不動になるジュナス。シャロンは不機嫌そうに顔をしかめながら、  「私に事情を説明いたしなさい。そうする義務があることは、お分かりですわね?」  「え?」  予想だにしない質問だったのだろう。ジュナスは虚を突かれたように、ぽかんと口を開けた。  「あなたと……その、ネリィさん、という方は、何をなさっていたのですか?」  ネリィさん、という部分に現れていた複雑な感情に、ジュナスが気付いたかどうか。  「え、ええと……」  しどろもどろになりながらも、ジュナスはこの信じられない状況を、簡単かつ正直に説明した。とは言え、ネリィに関わる内容以外、シャロンはほとんど聞いていない。ネリィという単語がジュナスの口から出る度に、彼女の表情は険しくなっていった。  「と、いうこと、なんだ、けど」  ジュナスはこわごわと話を結んだ。シャロンは黙って聞いていたが、血走った目を見開き、唇を噛み締めたその顔からは、隠しようのない怒りの念が滲み出ている。ジュナスは慌てて、  「い、いや、そりゃ信じられない話かもしれないけど、別に馬鹿にして嘘吐いてるとか、そういうのじゃなくて、俺はただ正直に……」  「……別に、信じていない訳ではありませんわ」  シャロンは、一度大きく息を吐き、目を閉じてまた開いた。そうすることにより、先ほどまでの表情は跡形もなく消え去り、後には人形のような無機質な表情が残る。  「Gジェネレーションの社員、と?」  「え? あ、ああ、一応。ここに停泊してる船の、MSパイロットで」  「ネリィさん、という方は?」  「え、ネリィ? 船の操舵担当、だけど……」  「ふん……」  シャロンは不機嫌そうに鼻を鳴らし、バイクの去っていった方を見据える。暗い瞳の奥深くで、青白い炎が揺らめいているようだった。  「情報どおり、か。偽名も使わずに堂々と……その上こんなところで騒音を撒き散らしながらバイクで走り回るなど、相変わらず貴族の慎みの欠片もない」  口の中だけで呟いていたとき、シャロンはふと気付いた。ジュナスが、不思議そうな顔でじっとシャロンの顔に見入っていることに。  「何か?」  聞く。ジュナスは「え」と少し驚いたあと、「いや」とシャロンの顔を見て一度躊躇ってから、  「気になったんだ」  「何がです?」  「何で、そんな風に寂しそうな顔をしてるのかって」  「え?」  驚き、シャロンは目を見開く。  「寂しい……? 私が!?」  「それに、」  と、ジュナスはどこか呆然と続けた。  「それに、すごく綺麗だ。何で、今まで気付かなかったんだろう……」  すっかり心を奪われたような、間の抜けた呟き。思わず吹き出しそうになるような、三文戯曲のような言葉。しかし、シャロンの方も何も言えず、毒気を抜かれた表情でジュナスを見つめ返す。  「……あ、あの!」  と、唐突に正気を取り戻したように、ジュナスは自分の服の懐やポケットをあちこち探って、一冊のメモ帳を取り出した。その1ページを破り取ると、もどかしげに何かを書き、シャロンに差し出す。  「これ、俺のアドレス!」  「は?」  反射的に受け取ってしまったシャロンが見ると、そこには確かに、メールアドレスらしい文字が羅列してある。シャロンの困惑した表情に気付いたのか、ジュナスは慌てて両手を振り、  「い、いや、違うんだって! 迷惑かけちゃったから、その賠償金とか、そういうのの相談とか、いるじゃない? いるよね?」  何故か必死に、ジュナスは弁解する。シャロンが首を傾げると、一層慌てて、  「ち、違うんだ! 誤解しないで? べ、別にナンパしようとか、そういうのじゃ。いや、それもちょっとはあるんだけど、決してそういうやらしい気持ちだけじゃなくて!」  喋れば喋るほど、ジュナスの言葉は支離滅裂になっていく。さすがにシャロンの表情が困惑から呆れに変わり始めたとき、ジュナスは耐えられなくなったように、  「じゃ、そういうことで!」  と、赤い顔で片手を挙げ、一目散に逃げ去っていった。シャロンはあたふたと走り去るその背中を見ながら、手元の紙片に目を落とし、  「……情報収集の手段には、なりまわすわね」  と、一人呟き、紙片をしまいこんだ。そして、少し迷った後、小走りにジュナスを追いかけ始めた。  「うわー、バカ、俺バカ!」  一人赤い顔で喚きながら、ジュナスは薄暗い路地裏を駆ける。  「なに言った、なに言ったんだっけ俺!? うわー、あれじゃ変態みたいじゃないか、なぁ!?」  返答はない。ジュナスはいつしか少し大きな通りに続く小道を走っていた。路地裏よりは明るいその通りへ抜け出そうかという直前、目の前をバイクが通り抜ける。人を乗せていない。幽霊バイクだった。そして、その後ろからも爆音が。  「ジュナス!?」  ジュナスの目の前で、幽霊バイクの後ろから来たもう一台のバイクが急停止する。ネリィだ。  「どこに行ってたんですの!?」  「え? どこって……」  ジュナスはちらりと路地裏を振り返り、  「……運命の出会いに失敗してたっていうか」  「はぁ?」  「いや、何でもない。それより、後ろ乗るぞ」  と、ジュナスはいそいそとネリィの後ろに乗ろうとする。  「……何かありましたの、ジュナス? お顔が赤いですわ」  「は? 何言ってんのネリィ僕訳分かんないなぁハハハハハ。それよりホラ早く追いかけようぜ幽霊バイク!」  馬鹿笑いしながら、ジュナスは急かすようにバイクの車体を叩く。ネリィは小首を傾げながらも、バイクを発車させる。  「ハッハッハー、いいぞネリィ、盗んだバイクで走りだそうぜ! それが青春ってもんだ、なぁ?」  「……落ちたときに頭でも打ちました?」  ちょっと気味悪そうなネリィの言葉など無視して、ジュナスはハイテンション全開で叫び続けた。