【ある姫君の暴走】 692氏  静まり返った町の中を、二人は右に左に逃げ回っていた。とは言え、死に物狂いで走っているのはネリィだけで、ジュナスは困った表情でそれについているだけだ。例のバイクは、そんな二人の後をぴったりと追いかけてきている。二人の走る速さに合わせるように速度を調整しながら。  「なぁネリィ」  声をかけてみても、返ってくるのは悲鳴ばかり。ジュナスは複雑そうな表情でちらちらと後ろを見ながらも、ネリィについていくしかない。  バイクは時折、値踏みするように二人に併走したり、前に回りこんで進路を塞ぐことさえあった。しかし、例の怪談話どおりに轢こうとはしてこない。  「な、なぶり殺しにするおつもりですの!?」  前方に立ちはだかるバイクから逃れるために踵を返しながら、ネリィが叫ぶ。ジュナスもそれを追いかけながら、だがネリィを呼び止め、  「ネリィってば。何か変だぞあいつ。俺達を殺すつもりとかはないんじゃないか?」  「甘いですわよジュナス! そうやって油断させる策略に決まっていますわ! 油断しているとあっという間にひき肉ですわよひき肉!」  「はぁ……」  ジュナスは走りながら後方を振り返る。バイクはどこか寂しげに、街灯が作り出す光の円の下で偽物のエンジン音を響かせている。ジュナスは釈然としない表情で、  「……やっぱ、何かおかしいと思うんだけどな……」  「ジュナス! もっと早く走らないと追いつかれますわよ!?」  ネリィがそう怒鳴ったので、ジュナスは渋々ながらもそれに従って駆け出した。  いくつもの曲がり角を曲がり、路地裏に飛び込み、塀を乗り越え、時には人の家の敷地すら横切る。そして、気がついたときには目の前に高い壁がそびえ立っていた。  「い、行き止まりぃ!?」  恐慌に彩られた表情で叫びながら、ネリィは必死で壁に縋り付く。しかし、入り組んだ路地裏の中に聳え立つその壁は見た目からして平らであり、足場になるところなどありそうもない。ネリィはやけくそ気味に壁を蹴りながら、  「何でこんな街中に袋小路があるんですの!? 欠陥工事ですわ!」  「落ち着きなってネリィ……」  ようやく追いついたジュナスが、息も絶え絶えにネリィをなだめる。ネリィはきっと振り返り、  「ジュナス、すぐに戻りますわよ!」  「……多分、遅いんじゃないかと思うけど……」  途切れ途切れに呟きながら、ジュナスは来た道を振り返る。「え」と引きつった声を漏らしながら、ネリィもそれに習う。  路地裏だからして街灯もなく、走ってきた道は完全に闇に閉ざされていた。その中から這い出るように、あのバイクの姿が現れた。  ネリィは瞳に発狂寸前の恐怖を浮かべ、路面にへたりこむ。かと思うと次の瞬間には勢い良く立ち上がり、腕を掴んでジュナスの体を引き寄せた。驚くジュナスを壁に押し付け、その背中に登ろうとする。  「ちょ、ネリィ、いた、痛いって!」  ジュナスの抗議も無視して、彼の肩に両足で乗ったネリィは、壁の頂上に向かって手を伸ばしつつ、  「じっとしてなさいなジュナス! あなたを踏み台にして脱出して、すぐに皆の助けを呼んでまいりますから!」  「俺ら二人分の身長で乗り越えられる壁じゃないってば、これ!」  その言葉どおり、ジュナスの肩にネリィが立っても、壁はゆうにあと1mはある。ネリィは歯軋りしながら、下に向かって怒鳴った。  「ジュナス、もう少し大きくなれませんの!?」  「無茶言うなよ」  「それでも男ですの、情けない。世の中にはきのこで巨大化するナイスミドルもいらっしゃるというのに!」  「何の話だ!?」  などとぎゃーぎゃー喚いている内に、下のジュナスがバランスを崩した。二人は揃って悲鳴を上げながら、地面に折り重なって倒れた。下敷きになったジュナスが、カエルが潰れたような悲鳴を上げる。  そんな二人を見下すように、バイクはゆっくりと近付いてくる。偽物のエンジン音で低く唸りながら。  ネリィが「ひっ」と小さな悲鳴を上げて、尻餅をついたままわたわたと壁際まで後退する。ジュナスは尻をさすりながら立ち上がり、バイクに向き直った。  「ああ、もうおしまいですわ……私たち、ここで念入りにぷちっとひき潰される運命ですのね……」  ネリィはさめざめと泣き伏している。しかし、ジュナスはその声が聞こえないかのように、じっとバイクに見入っていた。  「……案外、ボロボロだな」  呆けたように、ジュナスが呟く。ようやく立ち止まって観察できたためか、先ほどまでとは違うところに目がいく。バイクはやはり人を乗せていなかった。大型だが、それよりもまず各部にこびりついた汚れが目につく。しかし、噂話のような血の痕はなさそうだった。他にも破損している部位や剥がれ掛けたペイントやステッカーなどが見られ、見た目はまさに幽霊バイクといった感じではあるのだが。  バイクは、二人の少し手前で停止している。何かを待っているように、小さく唸りながら。  「……なあ」  ジュナスは呼びかけた。返事はない。構わず、続ける。  「お前、何がしたいんだ? 俺達に、何かしてほしいことでもあるのか……?」  心底、不思議そうな口調だった。その言葉から、恐れの感情は微塵も感じられない。  ジュナスの疑問に答えるかのように、バイクが発する唸りが、少しずつ小さくなっていく。  そして、ジュナスはその声を聞いた。  ――やっぱり、ダメか。  「え?」  ジュナスは目を見張る。その視線の先で、バイクはため息を吐くように、ゆっくりと前輪を後方へ巡らせた。  ――こいつらも、違う。  「違うって、何が……」  ――誰か、俺と走ってくれる奴は……  バイクは、完全に興味を失くしたように反転し、闇の向こうへ溶けるように消えていく。その後姿を見ながら、ジュナスは目を細めた。  「……寂しいのか、お前……?」  呟く声は、果たして届いたのかどうか。もはやあの声は聞こえず、バイク自身も止まることなく、二人の視界から消えてしまった。  そして後には、バイクの去った方を遠い目で見つめるジュナスと、座り込んだまま呆けたように目を瞬かせるネリィが残された。  「……え? えっと……あれ?」  すっかり混乱しきった面持ちで、ネリィがジュナスを見る。ジュナスは視線をバイクの去っていった方に向けたまま、  「……逃がしてくれた、みたいだな」  「え? ど、どうして……?」  ネリィは訳が分からないという顔をしている。ジュナスは少し驚いて、後ろのネリィを振り返った。  「ネリィ、さっきの声が聞こえなかったのか?」  「声……って、誰のです?」  ジュナスは首を捻った。  「気のせい……だったのか? でも、確かに聞こえたんだよなぁ」  少し考えてから、ジュナスは小さく息を吐く。  「ま、考えても仕方ない、か」  呟いたとき、誰かがジュナスの袖を引っ張った。振り向くと、ぺたんと座り込んだままのネリィがジュナスを見上げていた。表情を見る限り、恐怖は大分薄らいできたようだ。しかし、その顔には困惑がありありと表れている。  「あの、ジュナス? 一人で納得してないで、私にも教えてくださいません?」  「え? うーん……」  ネリィの問いかけに、ジュナスは困ったように頭を掻いて、  「……とりあえず、さ」  と、バイクが去っていった方を指差し、  「あいつ、俺達を轢き殺そうとしてたんじゃないと思うよ」  「え?」  ネリィの目が点になる。  「でも、殺された持ち主の復讐は……」  「そういうんじゃないと思うんだよなぁ、あれは。あのバイク見て、誰かが勝手に話を作ったんじゃないの?」  「どうしてそれがお分かりになられましたの?」  「ん? そりゃ、さっきの声が……」  言いかけて、ジュナスは口を噤んだ。幽霊の声が聞こえた、というので、ネリィが不安そうな顔をしていた。  「あー、まあ、あれだよ」  言葉を探すように目線をさまよわせてから、  「何となく、だな、うん」  ジュナスは一人頷いた。ネリィはもどかしそうに、  「それでは答えになっていませんわ」  「えー……でも、そうとしか言いようがないってーか……」  「もう……これだからニュータイプって」  「え、なに?」  「いえ、何でもありませんわ……」  答えたあと、ネリィは少し黙って考え込んでいたが、  「ジュナス」  「うん?」  「……あなたの仰ることが本当だとしたら……あのバイク、こちらに危害を加える気はなかった、と?」  「多分だけど」  ジュナスが首肯すると、ネリィは俯き、低い声で、  「……つまり、こちらが悲鳴を上げながら逃げ回るのを見て楽しんでいたと……」  「は? いや、それはちょっと話が飛躍しすぎ……」  ジュナスが苦笑しかけたとき、不意にネリィが小さく肩を震わせ始めた。笑っている。かすかな笑い声は、徐々に大きくなっていく。ジュナスはぎょっとして、  「ど、どうした、ネリィ?」  と、ネリィの肩に手を置きかけたが、彼女はそれよりも先に笑うのを止め、すっと立ち上がった。瞳から恐れの色が消え、代わりに怒りと闘志の炎が爛々と燃え盛っている。気圧されたように、ジュナスが一歩身を引いた。  「……」  ネリィは般若の如き目つきでバイクが消えた方向を睨みつけていたが、やがて無言で駆け出した。  「って、待てよネリィ!?」  彼女の背中を追って駆け出しながら、  「何か、今日は走ってばっかりな気がする」  ジュナスはため息混じりにぼやいた。