【ある姫君の暴走】 692氏  少女は走っていた。服が汚れるのなど少しも気にもせず、美しい白い肌をわずかに紅潮させて。周囲には緑の香が満ち、木々の隙間から差し込む日差しが少女の笑顔を明るく照らし出していた。  「ネリィお嬢様ー! どこに行かれたんですかー!?」  背後から聞こえてきた小さな叫び声に、少女は走りながらケラケラと笑う。  「私はここよー。ベイツ、追いついてごらんなさいな」  「無茶言わんでください、少しは俺の年も考えてってうわ、犬が、何かデカイ犬がぁぁ!」  叫び声は途中で悲鳴にかわり、遠くの方でバタバタという足音が遠ざかっていく。少女はおかしくてたまらないと言う風に笑い、そのせいで足をもつれさせて転んでしまった。しかし、服や肌に泥がつくのも、少女にとっては楽しいことらしかった。少女は地面を覆う草の上に横たわったまま、楽しそうに笑い続ける。  どこからか、ヴァイオリンの音色が聞こえて来たのはそのときだった。少女はゆっくりと身を起こし、不思議そうに周囲を見回す。そして、音の聞こえてくるほうに向かって歩き出した。  木々の隙間を歩き、少女はいつしか森から抜け出していた。正面に、見慣れない建物が見えた。ヴァイオリンの音色は、そこから聞こえてきている。  少女は好奇心に満ちた目で建物に近付き、音色の出所である窓をそっと覗き込んだ。  そして、自分と同じ金色の髪を持つ、一人の女の子の後姿をその目のとらえたのだった。  不意に、ネリィは目を覚ました。耳元でけたたましくアラームが鳴り響いている。ゆっくりと身を起こして首をめぐらすと、見慣れた自室の光景が目に入ってきた。欠伸を一つしながら時計のアラームを止め、ネリィはしばらくベッドの上でぼんやりしていた。  機動戦記Gジェネレーションズ 第二幕 第三話 ある姫君の暴走  その日ネリィは非番だったが、どこかに出かけることもなく、夕方になっても部屋の中にいた。書類などが散らばったデスクに、何をするでもなく座っている。右手で、数日前にジュナスから渡された筒を弄んでいた。  「シャロン・キャンベル……」  その名前を呟き、どこか違和感を覚えたように、ネリィはかすかに顔をしかめる。  「キャンベル、か。一体どなたの姓なのかしら?」  少し考えて、ネリィはデスクの一番下の引き出しから、一冊の古いアルバムを取り出した。アルバムの中のどの写真にも、金髪の少女……昔のネリィが写っている。好奇心に満ちた瞳と、活発で健康的な笑顔が並ぶ。ネリィはクスリと微笑を零した。  スカートをたくし上げて木登りしている十歳ぐらいのネリィと、焦った顔でそれを見上げている無精ひげの男の写真を見て、ネリィは懐かしそうに、  「ベイツは元気にしているかしら」  後半の写真のネリィは、前半に比べればいくらか大人しくしていることが多かった。父親と一緒に写っているものが多いからだ。  可憐なドレスを身に纏い、十二歳ぐらいのネリィが緊張した表情でカメラを見ているのに対し、そばに立っている父の顔はどこまでも穏やかだった。郷愁を含んだ瞳でそれを見つめ、ネリィは吐息混じりにアルバムを閉じる。  「……母様のはともかく、シャロンの写真は一枚もありませんのね」  ネリィは、思い出すように目を閉じた。古い記憶を呼び覚ます。邸内の隅に建てられた、小さな別館。その部屋の一室で、一人ヴァイオリンを弾いていた少女。芸術家が人形に魂を込めたのではないかと見まがうほどに、美しい顔立ち。  「そう。あの子は、初めて会ったあの部屋を一歩も出たことがないみたいだった。まるで、ガラスケースに収められた人形のように、あの子はいつもあの部屋にいた。それが役目であるかのように、あの部屋から動かなかった」  独白しながら、ネリィがデスクの上に置いた筒を手に取ったとき、聞きなれたアラームが鳴り響いた。艦長室からの通信。  「はい」  「こんばんは、ネリィさん。お休みのところを申し訳ありませんね」  穏やかな表情のエターナが、壁に備え付けられたモニターに顔を出す。既に居住まいを正していたネリィは首を横に振って、  「いえ。何か急な仕事でも入りまして?」  「ああ、そういうのじゃなくてですね。ネリィさん、今、このコロニーにキリシマさんがいらっしゃっているのをご存知ですか?」  「キリシマ……フローレンス姉様が?」  ネリィの顔に喜びが広がった。エターナは笑顔で頷き、  「ええ。それで、少しでいいからネリィさんにお会いできないかと、先ほど通信がありまして。キリシマさんはお忙しいらしくて、あまり時間は取れないそうですけれど」  「構いませんわ。時間の指定などはありまして?」  「とりあえず、今日の十時ごろから一時間ほどなら大丈夫だそうです。支社までの道は分かりますか?」  「ええ。ありがとうございます、艦長」  「いえ。それでは、楽しんできてくださいね」  微笑みを残して、エターナの顔がモニターから消える。ネリィはまたデスクの一番下の引き出しを開け、先ほどとは別のアルバムを引っ張り出した。中身は、先ほどの物とは方向性が全く異なる写真ばかりである。その中の一枚……今より少し若いネリィと、黒い長髪の女性が並んで写っている写真に目を落とし、ネリィはうっとりと呟く。  「フローレンス姉様……」  黒い長髪の女性の名前である。その写真が異様なのは、写っている女性が二人とも、いわゆる「特攻服」を着ていることだ。二人は隣り合い、俗に言う不良座りをしている。ネリィがいくらかぎこちないのに対して、フローレンスの方はレンズを睨み上げている目つきといい、実に堂に入った雰囲気である。服の袖には「離死手亞」という文字が縫い付けられていた。  他の写真も、大体似たような感じのものばかりだ。ネリィはしばらく、思い出に浸るような懐かしげな目つきでアルバムを眺めていたが、ふと壁の方を見つめ、  「あれ、着ていこうかしら」  ハンガーに掛けてあるのは、先の写真にも写っていた特攻服である。背中の部分に大きな赤い文字で「離死手亜」という刺繍が施されている。少し考え、ネリィは首を振ってため息を吐いた。  「駄目ね、フローレンス姉様もお仕事の最中だし……一人で特服を着ていくなんて、チームに対する冒涜だわ」  一人ごちたあと、ネリィは時計を見て、  「まだ少し早いかしら。でも、万一姉様をお待たせしたら失礼だし」  と呟き、いそいそと外出の準備を始めた。  艦の出入り口に向かう廊下の途中で、ネリィは足を止めた。どこからか、賑やかな談笑が聞こえてくる。  「ん?」  廊下の途中に設けられた休憩スペースに、何人か集まって話しているようだった。  「何かしら」  覗き込むと、見慣れたメンバーが休憩スペースのソファに座っているのが見えた。  「それでね……あらネリィ、こんばんは。どこかへお出かけ?」  周りのメンバーに向かって夢中で喋っていたミリアムが、ネリィに気付いて軽く手を振ってきた。ネリィが答える前に、その場にいたカチュアが、  「あれ、今日のネリィ、何かいつもと違う」  「ホントだ。すげー、いつにも増して高そうな服着てるなー」  脳天気に言ったのはジュナスである。彼らの他にはエルンスト、ラナロウ、ノーラン、ショウ、シスがいた。さすがに、これだけいれば休憩スペースも狭苦しく見える。駆け寄ってきたカチュアが、目をまん丸にしてネリィを見上げ、  「あ、それに、いつもよりお化粧が丁寧だ」  そして無邪気にはしゃぎながら、  「分かった、オトコに会いにいくんでしょ」  「だからお前はどこでそういう言葉を覚えてくるんだよ」  エルンストが苦笑する。その向かい側に座っているショウが顔を赤くしながら、  「オトコって、つまり恋人のことですよね」  「まあ、そうなるね」  隣に座っていたノーランが、苦笑気味に答える。  「ネリィの恋人、か……どんなのだろ……」  腕を組んで考え込んでいたジュナスが、おもむろに顔を上げ、  「奴隷?」  「アナタは私を何だと思ってますの?」  ネリィがジュナスを睨みつける。ジュナスは首をすくめた。ミリアムが笑いながら、  「まあ、冗談は置いといて……どうなの、ネリィ?」  「え?」  いつの間にか、全員の視線がネリィ集中していた。好奇心一杯に見上げてくるカチュア、興味津々に身を乗り出しているジュナス、にやにやしているエルンスト。ネリィはため息を吐いた。  「そんなんじゃありませんわ。昔お世話になった方に会ってくるだけでしてよ」  「そう? それにしては、凄く気合が入ってるみたいだけど」  茶化すように、ミリアムが言う。ネリィは頬を染めて、  「それは、まあ……何というか、憧れの人ですから」  おおっ、と全員が少しざわめいた。ネリィは慌てて、  「あ、でも、女性ですわよ。殿方ではございませんわ」  「あ、なんだ……お世話になった先輩、っていう感じ?」  「まあ、そんなところですわ」  ネリィはほっと息を吐いたが、休憩スペースの一角では、  「女、だってよ。でもやっぱあの化粧は不自然じゃないか?」  「ネリィって鞭が似合うと思ってたけどさ……その上アブノーマルだったんだなぁ」  「あぶのーまるって何だ?」  エルンスト、ジュナス、ラナロウである。ネリィは拳を握って、  「一発ぶん殴って差し上げましょうか?」  「ほらほらネリィ、そんな怖い顔しちゃ折角の化粧が崩れちまうよ?」  「あ」  ノーランに穏やかに諭され、ネリィは慌てて居住まいを正す。  「ヘッ、喧嘩ならいつでも受けて立って」  「あなたは余計なこと言わなくていいの」  威張るラナロウの言葉を、ミリアムがぴしゃりと遮る。そこでようやく質問の機会を得たネリィが、  「ところで、皆様こんなところで何を話されてましたの?」  「え? ああ、それはね」  「怖い話だよ」  まだネリィのそばにいたカチュアが、元気な声で答える。ネリィは頬を引きつらせて、  「え、怖い話?」  「そうよ」  「どうしてそんな」  ネリィの声が硬い。ミリアムはきょとんとして、  「まあ何となく、成り行きでだけど……ネリィ、ひょっとして、そういうの苦手な方?」  「え!?」  ネリィはあからさまに動揺しながら、取り繕うように引きつった笑いを浮かべ、  「そ、そんなことありませんわ! こ、この私が、お、お化けなんかを怖がるだなんてそんな馬鹿な話」  「へー、ネリィはお化けが苦手だったのかぁ」  何故か感心したように、ジュナスが言う。ネリィは必要以上に力み、  「ち、違うと言っているでしょう! へ、変なレッテルを貼るのは止めてくださらないかしら?」  「だよなぁ。ネリィならお化けだって轢き殺せそうだ」  ジュナスはあっさり引きあがった。  「ヘッ、なら俺は叩き殺して」  「はいはい、あなたは何も言わなくていいから」  またもラナロウの台詞を相殺するミリアム。ネリィは「隙あり」とでも言うように、  「そ、それでは皆様、そろそろ約束の刻限が迫ってまいりましたので、これで失礼……」  「約束の時間って何時?」  「え、十時ですけれど」  カチュアに答えてしまってから、ネリィは「しまった」と言うように口を押さえる。全員の視線が壁の時計に集中し、  「まだ六時前じゃん」  「四時間もあればコロニー内ならどこでも行けるよねぇ」  「ってことはやっぱり」  再びネリィに視線が戻ってくる。ネリィは両手をブンブン振って、  「ち、違いますわ! け、決してお化けが怖いとか夜眠れなくなるとか、そういうことではなくて」  「じゃあさ、時間来るまでネリィも一緒に話していかないか?」  ジュナスが誘う。嬉しそうな口調。表情にも悪気が全くない。ネリィは焦った様子で目をそらしながら、  「え、いえ、でも、そのぉ……」  どうも歯切れが悪い。その時、ずっと黙っていたシスが、  「あ、あの……」  と、躊躇いがちに口を開いた。途端に視線がそちらに集中する。シスは怯えたように俯き、また黙ってしまう。  「ど……どうしたの、シス?」  ショウがぎこちなく助け舟を出した。隣でノーランが「よくやった!」とガッツポーズを作る。シスはショウの方をちらりと見て、  「あの……怖がっている人を、無理矢理こういう話に参加させるのは……」  「かわいそう?」  ショウが言うと、シスはこくりと頷いて顔を伏せた。ネリィの頬がぴくりと動く。  「……なんですって?」  「あー、そっか。確かに、怖がりな人がこういうの聞くと後が大変だもんね。ごめんね、ネリィ」  ミリアムが軽く謝り、ネリィの頬が引きつった。  「あ、やっぱ怖かったのか。人って見かけに寄らないんだなぁ」  ジュナスが感心したように言い、ネリィの眉間に皺が寄った。  「ヘッ、チキン野郎は引っ込んでやがれ」  ラナロウが吐き捨て、ネリィのこめかみに青筋が立った。  ネリィは無言で休憩スペース中央のテーブルに歩み寄り、その表面を思い切り手で叩いた。そして、呆気に取られるその場の面々を睨み回し、  「……そこまで言われて引き下がる訳には参りませんわね……」  「へ?」  きょとんとするミリアムの横を通り抜け、ネリィは乱暴にソファに腰を下ろす。  「遠慮なくお話しなさい。その上で私が臆病者かどうか、決められるとよろしいですわ!」  鼻息も荒くネリィが宣言すると、周囲が「おおっ」とどよめいた。ノーランが心配そうに、  「ネリィ、無理はいけないよ?」  「おほほほほほ、この私のどこがどう無理をしていると言うのです?」  膝をガクガクさせながら、ネリィが言う。ノーランは何か言いたげな顔だったが、結局はため息を吐いて首を振った。ミリアムが嬉しそうに、  「じゃ、ネリィも怖い話を聞くってことでいいのね?」  「え、ええ。い、いくらでもどうぞ?」  「そう。じゃ、話させてもらいましょうか」  ミリアムはウキウキした様子だった。「何でそんなに嬉しそうなんだ?」とエルンストに聞かれ、「ああいう人が一番いい反応してくれますからね」と答える始末だ。  「外道……」  思わず呟くネリィに、  「……なぁネリィ、ホントに大丈夫か?」  少し心配そうに、ジュナスが問いかけてくる。ネリィは彼の横に座ったのだ。  「だ、大丈夫も何も、この私がお化けなんかを怖がる訳がないでしょう? だ、大体、魂だの霊魂などは全てプラズマですわ。偉い人もそう仰っています」  喋れば喋るほどに、ネリィの体の震えは強くなっていく。ジュナスは気付いた様子もなく、  「そうかー、プラズマかー。なんか分かんないけど凄いなぁ」  と、感心した様子だったが、ネリィはそれどころではないという感じの強張った表情だ。ジュナスはそれを横目で見やりながら、  「でもさぁネリィ、怖い話だったらうまいんじゃないのか?」  突然の言葉に、ネリィは数回瞬きして、  「……どうしてですの?」  「だって、ネリィん家って結構古いじゃんか。なら、幽霊の一人や二人となら会ったこともあるんじゃないの?」  「そんな、古いと言ってもコロニーですもの。せいぜい五十年程度ですわ。それに、会ったら会ったでもっと怖い……」  と、鼻で笑いかけたネリィだったが、ふと眉をひそめ、  「ジュナス、どうしてあなた、私の家のこと知ってらっしゃるの?」  「え? あー、それはさ」  ジュナスが説明しかけたとき、「さて、と」とミリアムが呟き、低い声で語りだした。  「これからお話するのは、あるバイクの物語よ」  「バイク……ですか」  少し興味を惹かれたように、ネリィが呟く。ミリアムは頷き、  「でも、このバイクは普通のバイクとは少し違ってね。いわゆる族車ってやつだったんだけど」  「族車?」  聞き慣れない単語に、ジュナスが首を傾げる。逆に、隣のネリィは目を輝かせて、  「暴走族、と一般的に総称される者達が乗りこなしている、法に違反した改造を施した車両のことですわ」  「ぼーそーぞく?」  カチュアが眉をひそめると、ネリィはすかさずそちらに向き直り、  「読んで字の如く、車両を使った暴走行為を繰り返す集団のことですわ。最もそれは表面的かつ浅はかな見方で、本当はただ純粋にスピードの限界を追い求めて走り続ける熱い魂を持った集団なんですけれど」  一人熱弁を振るうネリィに、さすがのカチュアも気圧されたのか声も出ない。横で聞いていたエルンストが渋い顔をして、  「そうか? 奴等はそんな大した連中じゃないだろ。音なしで動くエレカに、わざわざ排気音鳴らすスピーカーまでくっつけて騒音撒き散らすわ、誰彼構わず喧嘩吹っかけるわ、いいとこ無しじゃないか」  ネリィは憤然とエルンストを振り返り、  「そんな何の誇りも持っていないような低俗な連中と一緒にしてほしくないですわね。いいですこと、我々走り屋チーム『離死手亜』は常に最速を追い求める……」  言いかけて、ネリィはハッと口を塞ぐ。そしてぎこちない作り笑いを浮かべて、  「いえ、何でもありませんわ。さ、ミリアム。話を続けてくださいな」  取り繕うように言いつつ、ネリィは元の席に戻る。ミリアムは釈然としない表情ながらも、  「……まあいいわ。で、今回話すバイクはその族車なのよ。それも、ネリィさんが言ったみたいな、本物の走り屋が乗ってた、ね」  「走り屋、ねぇ」  エルンストがうさんくさそうに言う。  「正直、人間が宇宙に上がったってのに、今更バイクで街中走り回るってのも何だかなぁ」  「でも、そういう人たちってどこのコロニーにもいるでしょう? 人間、時代が変わってもやることは大して変わらないってことですよ」  ミリアムが言うと、エルンストも「まあ、な」と頷いた。ミリアムは続ける。  「で、その人もあるコロニーで、暴走族の総長……まあ、要するにリーダーのことね。それをやってた訳なんだけど、さっきも言ったとおり走り屋さんだったから、他のチームとの抗争とかそういうのには全然興味がなくて、ただ純粋に走ることを愛してたのよ」  「いいですわね……何て素敵な方なんでしょう」  うっとりと、ネリィが呟く。ミリアムは肩を竦めて、  「ところが、その人も結局はゴタゴタに巻き込まれちゃってね。最後は事故に見せかけて殺されちゃったのよ」  「すごい、サスペンスだ」  「違うと思うぞ」  カチュアとエルンストのやり取りを横目に、ミリアムはにやりと笑い、  「それで、ここからが怪談なんだけど……その人が乗ってたバイク、事故の翌日に現場から消えうせててね。仲間の人が不思議に思って探したんだけど、結局見つからなかったの」  「誰かが持ってっちゃったんじゃないのか?」  ジュナスが至極まっとうなことを言う。ミリアムは頷き、  「うん。誰もがそう考えたの。ところが数日後、ある事件が起こってね」  「事件?」  「そのコロニーに存在してた暴走族のあるチーム員が、何者かによって轢き殺されたのよ。調査の結果、そのチーム員は死の直前まで何かから逃げ回ってたことが明らかになってね。さらに、その死に顔はまるで悪魔にでも襲われたかのような、強い恐怖に塗りつぶされていたんだって。で、それから数週間ほどの間、同じような事件が何件も続いてね」  「……話のパターンから考えりゃ、そのバイクに乗った走り屋の亡霊が、夜な夜な自分を殺した奴等を轢き殺してたってとこか?」  エルンストが呆れたように言う。ところがミリアムは「ちっちっち」と指を振り、  「甘いですね、隊長さん。かなり近いですけど」  「じゃあ何だ?」  「バイクですよ」  「……バイクがひとりでに動いて、暴走族を轢き殺していた?」  うさんくさそうにエルンストが言うと、ミリアムは不満げに口を尖らせ、  「オチをばらさないでくださいよ」  「いや、だってなぁ……」  「もう。あ、でも、さすがの隊長さんでも、そのコロニーがどこかを聞いたらびっくりしますよ」  エルンストは少し考えて、  「……まさか、ここか?」  「正解!」  「ヒッ!」  ミリアムの声と、誰かの悲鳴が重なった。言うまでもなく、ネリィのものである。ミリアムが楽しそうに、  「それで、そのバイクは、今でも主人の仇を求めて、このコロニーのどこかを夜な夜な彷徨っているということです。とりあえず、会った人は全員轢き殺してるそうなので、皆さん気をつけてくださいね」  と、締めくくった。後半を聞いただけでネリィの顔から血の気が引いたが、それ以外の者達は皆どことなく困ったような表情で顔を見合わせた。  「あの、今のって何が怖かったんでしょう?」  「いや、正直さっぱり分からん。っつーか、ワッパ全盛のこの時代にバイクはねぇだろ、バイクは」  ショウとエルンストの会話である。ミリアムは口を尖らせて周囲を見回していたが、ジュナスが何か考え込んでいるのを見つけ、  「ジュナス君、どうしたの? ちょっとは怖かった?」  「え? いやさ」  ジュナスは感心した風に何度か頷き、  「走り屋さんはよっぽどそのバイクを大切にしてたんだろうなぁって思ってさ。だからバイクも仇討ちしようと思った訳だろ?」  と聞いてきた。ミリアムは複雑な表情で、  「えーと……うん、そうなんじゃない?」  「ケッ、馬鹿馬鹿しい」  吐き捨てたのはラナロウである。  「バイクが自分で勝手に動く訳ねぇだろうが」  「え、だって幽霊なんだろ?」  ジュナスがきょとんとした顔で言う。ラナロウは馬鹿にするように鼻を鳴らし、  「そんなもんがいる訳ねえだろ? 大体こいつが言ってるって時点でうさんくせぇんだよ」  と、ミリアムを指差した。ミリアムはむっとして、  「何で私が言ってるからうさんくさいってことになるのよ」  「まあ、確かに技術畑の人間がオカルト好きってのも何かおかしい気はするけどな」  エルンストが苦笑気味に言うと、ミリアムは澄ました顔で、  「あら、科学と宗教は両立すると思いますよ? 大体、幽霊の存在を完璧に否定できるほど、今の科学は進んでませんよ」  「だからって存在するって証拠もないと思うんだが」  「幽霊はいるって思った方が、夢があるじゃありませんか」  ミリアムは笑顔でそう言った。ラナロウが「へっ」と笑い、  「バカ女が」  ミリアムはきっとラナロウを睨みつけ、  「あなたにバカって言われるのだけは心外だわ!」  「どういう意味だコラ!?」  ラナロウも激昂して立ち上がる。そして始まる口喧嘩。最早慣れているのか、止める者は一人もいない。  「……ねぇシス、シスは幽霊っていると思う?」  飛び交う罵声に邪魔されながらも、ショウがシスに問いかけた。わずかな間を置いて、シスは小さく頷いた。ショウは少し驚いて、  「そうなんだ。何だか、意外だな」  「どうして?」  「シスって、そういうの信じてなさそうだから」  「そう」  「うん……あの、どうして、幽霊はいると思うの?」  少しためらいがちに、ショウが聞く。シスは思い出すように目を閉じ、呟くように言った。  「……ときどき、コックピットの中で声が聞こえるの」  「え……コックピットって、ブルーディスティニーの?」  「そう。だから……」  「それが、幽霊だって?」  「多分」  と、シスは静かに頷いた。ショウは夢でも見ているような心地で、  「そうか……ブルーディスティニーの中には、誰かがいるんだ……」  シスはショウをちらりと見やり、  「……信じるの?」  「本当なんでしょ?」  「うん」  「シスがそう言うのなら、きっと本当にいるんだよ」  ショウはあどけなく笑ったあと、急に心配そうな顔をして、  「でも、それって怖くない?」  「ううん。怖いとか、そういうのはないの」  「そうなんだ……良かった」  「……うん」  どことなくゆったりと話す二人を、ノーランが微笑ましげに見つめている。  ラナロウとミリアムの罵り合いと言うか喚き合いはますます熱を増していたが、そのすぐ近くで今にも死にそうな顔をしている者もいる。  「……なあネリィ」  「ひょわぁっ!?」  ジュナスが隣でガタガタ震えて青ざめているネリィに声をかけると、彼女は素っ頓狂な悲鳴を上げてベンチから飛び上がった。  「ななななな、なんですの突然!? この無礼者! 驚かさないでくださいまし!」  「ご、ごめん」  恐ろしいほどに必死な形相のネリィに、ジュナスは気圧されたように謝ってしまう。ネリィは何とか気息を落ち着けると、  「そ、それで、この私に何か御用でしてジュナスさん?」  と、妙に早口な震え声で言った。ジュナスは少し言いにくそうに、  「いや……大丈夫かなぁと思ってさ」  「な、何がですの?」  本人は余裕の表情を作っているつもりらしいが、ネリィの顔は青ざめている上に思い切り引きつっていた。ジュナスは困った様子で、  「なぁ、怖いんなら無理しなくても」  「怖い!? 誰が!?」  やたらと力んで、ネリィが言う。  「おほほほほ、ジョークがお下手ですのねジュナス。そんなことでは社交界で相手にされませんわよ?」  「いや、そんなん知らないけどさ」  「先ほども申しましたでしょう? 霊は全てプラズマです。動こうが人を轢き殺そうが、全てプラズマの仕業なのです。そういえばライノ何たらというモビルアーマーがプラズマで壊れたという話も」  「ああうん、怖くないんならいいんだけどさ。多分まだまだ話続くと思うし」  ジュナスはラナロウとミリアムを指差す。二人の口論は「これからずっと怖い話をして、どちらが先に根を上げるか勝負する」という感じに落ち着きそうなところだった。  「ずっと……怖い話……」  呆然と、ネリィが呟く。ジュナスが苦笑気味に、  「ほら、やっぱさ、怖いんなら無理しなくても」  「いいえ! だ、大丈夫ですわ」  「えー、でもさ」  「しつこいですわねあなたも! この私がお化けなんかを怖がる訳がないと」  そのとき、唐突に照明が消えて、周囲が真っ暗になった。途端に絹を裂くような悲鳴が響き、一瞬の間を置いて鈍い音が聞こえてくる。  「うわ、何だ?」  「停電か?」  「誰か非常灯つけろよ」  「っつーか、今何か変な音が」  ざわざわと騒ぎ出す一同。幸い、照明が消えていたのは数秒だった。電気がつくと同時に、スピーカーから声が流れ出す。  「あー、すまんかったな皆の衆、整備班長のダイスじゃ。今の停電はウチの阿呆が勝手に変なとこいじったせいで」  「最新式の回路のテストをしていたのであります!」  「お前は黙っとれ! まあとにかく、艦の故障とかではないから安心しとくれ」  「っていうかミンちゃん、こんな時代遅れの回路どっから手に入れたんだい?」  「町で会ったおじさんがくれたんであります。『これでガンダムはもっと戦える』って言って『地球連合ばんざーい!』って楽しそうにしてたのでいい人だと」  「黙れと言っとろうが! いっそ階段落ちしてみるか!?」  ダイスの怒声を最後に、放送は聞こえなくなった。「やれやれ」と、エルンストがため息を吐く。  「何をやってんだかなぁ」  「ホントにね」  苦笑したノーランが、「あれ」と呟き、  「ジュナスはどこ行ったんだい?」  ジュナスがソファから消えていた。全員が周囲を見回す。そして、ソファの傍で頭を抱えてうずくまっているネリィと、その向こう側の壁に頭をぶつけて気絶しているジュナスを発見したのだった。  うめき声を発して、ジュナスは目を覚ました。まず視界に入ったのは、ネリィの心配そうな顔だった。  「あ、目が覚めまして?」  「ネリィ……」  ジュナスはぼーっとした目で体を起こし、頭を掻いて「いてっ」と顔をしかめる。  「こぶができてる……?」  首を傾げながら、周囲を見回す。そこはグランシャリオ内の医務室で、ジュナスはベッドに寝ていたのだった。ネリィに、  「何がどうなってんの? 俺は何でこんなとこに?」  と聞くと、ネリィは決まり悪そうに目をそらし、  「ええと、それは……」  と、口ごもった。そのとき、明るい笑い声と共に、白髪の黒人が姿を見せた。白衣を着て聴診器を首に引っ掛け、その上でサングラスをかけている。グランシャリオの船医であるバイス・シュートだ。バイスは前のデスアーミー出現の少し前から休暇を取っていて、最近船に復帰してきたのである。  「ようジュナス♪ 起きたみたいだな♪」  歌うような独特なリズムで、バイスが体を揺らしながら喋る。よく見ると、片耳にイヤホンをつけていた。ジュナスはおかしそうに笑って、  「何か、相変わらずだねバイスさん」  「患者を診るときぐらいイヤホンは止めていただけません?」  ネリィが顔をしかめてそう言ったが、バイスは笑い飛ばした。  「そういつぁ無理ってもんだぜお嬢様♪ 俺は音楽なしじゃ生きられねぇ体なのさ♪」  「で、バイスさん、俺一体なんでこんなとこに?」  「覚えてねえのか♪ お前、そこのネリィさんにブン投げられて、壁に頭ぶつけて気絶してたんだぜ♪」  「え」  ジュナスがネリィを振り返る。ネリィは顔を赤くして、勢い良く頭を下げた。  「も、申し訳ありませんでした! 突然明かりが消えて、動転してしまって……」  「ああいや、別にいいよ。あの時は俺もびっくりしたし」  慌てて言いながら、ジュナスは頭をさすり、  「まあ、正直あんまり覚えてないんだけど」  「ははは♪ ジュナスは脳天気だな♪ 良かったじゃねぇかネリィさんよ♪」  バイスはリズムに乗って体を揺らしながら、二人に背を向ける。  「脳の方にも異常はねぇみてだから安心しな♪ 俺はちょいと出かけるが、大丈夫そうだったら勝手に帰っていいぜ♪」  「うん。ありがとうバイスさん」  「気にするなって♪ 人類皆兄弟だぜ♪」  規則正しいリズムで手を振りながら、バイスは医務室を出て行った。途端に、室内は火が消えたような沈黙に包まれる。  「やっぱり面白い人だよなぁバイスさん。俺も今度ダンスとかやってみるかなぁ」  冗談めかして言いながら、ジュナスは体を揺らしてみせる。しかし、ネリィは先ほどと変わらず気落ちした顔をしている。  「ネリィ、あんま気にしなくっていいって。バイスさんも異常はないって言ってたんだし」  「そんな訳には参りませんわ!」  ネリィは叫ぶようにして言い、嘆くように額を手で押さえる。  「まさか、あの程度のことであんなに取り乱してしまうなんて……ああ、私は人間の屑ですわ。蛆虫にも劣るアンチクショウなんだわ」  「いや、そこまで言わなくても……っていうかアンチクショウってなに」  「いいえ、その通りなのです! ああ、こんな情けないことでは……どの面下げてフローレンス姉様にお会い出来ると言うのでしょう?」  やけに芝居がかった口調で、ネリィは悲嘆に暮れる。ジュナスはきょとんとして、  「え、ネリィが会いに行くって言ってたの、ひょっとしてキリシマさんなのか?」  「え? ええ、そうですけれど……」  ネリィも驚いた様子で、  「知っていらっしゃるの?」  「そりゃ知ってるよ。ブランド社長の秘書さんでしょ? あれ、そういえば……」  ジュナスはきょろきょろと辺りを見回し、壁の時計を見る。時刻は十一時を回っていた。  「……大変だ! ネリィ、約束の時間って十時なんだろ!?」  「え、ええ、そうですけれど……」  「何で行かなかったんだよって俺のせいか!? ああ、やばいやばい、やばいぞ……」  ジュナスは布団を引っぺがし、慌ててベッドから降りようとした。しかし、足をもつれさせて顔面から床にダイビングしてしまう。  「いててて……」  「だ、大丈夫ですの?」  ベッドの向こうから、ネリィが駆け寄ってくる。ジュナスは「だ、大丈夫大丈夫」と笑って体を起こしながら、  「それより、早く行きなって。今からでも行けば間に合うかもしれないしさ」  「え、ええ……」  言いながら、ネリィは顔を曇らせる。ジュナスは眉をひそめ、  「どうしたんだよ? 久しぶりに会うんだろ?」  「……二年振りかしら」  「うわ、そんなに!? じゃ、じゃあ、尚更早く行かなくちゃ」  言いつつ、ジュナスは医務室の扉に向かって駆け出す。しかし、ネリィはその場を動かなかった。ジュナスは振り返り、  「どうしたんだよ、早く……」  「え、ええと……あの……」  ネリィは俯いて、もじもじしている。ジュナスは時計を見ながらネリィに駆け寄り、  「ネリィ、早く行かないと……行きたくない訳じゃないんだろ?」  「あ、当たり前ですわ!」  「じゃあ何で……」  そこで、ジュナスはふと何かに気付いたように、  「……ネリィ、ひょっとして怖いのか?」  ネリィはびくりと体を震わせたあと、慌てふためいた様子で、  「ち、違いますわ! 私はお化けなんて……」  「お化けが、なんて言ってないけど俺」  「う」  ネリィの顔が硬直する。  「……ち、違いますわ、そうじゃなくて、私、私……」  必死に言い繕おうとするネリィだが、なかなか言葉が出てこない。ジュナスはふっと微笑みながらネリィの肩を掴んだ。そして、涙で潤む彼女の瞳を見つめながら、一言、  「……ネリィ。俺、笑わないよ?」  優しい調子の言葉。ネリィの顔がくしゃっと歪む。そのまま、ネリィは俯いて肩を震わせ始めた。ジュナスは慌てて、  「な、泣かないでよネリィ」  「だ、だって、私……あんまりにも情けないんですもの……こんな年になってお化けが怖いだなんて……」  「いや、そんなことないって。誰にだって怖いものはあるって」  「……じゃあ、ジュナスはお化けが怖いんですの?」  「怖くないけど」  「ほらやっぱりぃー! あんなこと言っておいて心の中では私のこと笑ってるんだわそうなんだわぁー!」  ネリィはベッドにすがり付いてすすり泣き始めた。ジュナスは困ったように頭を掻き、  「あのー、ネリィ?」  「ほっといてくださいまし! 誇り高きクォーツ家の娘ともあろうものがこんな恥辱を受けるだなんて、もう生きていられませんわ!」  感情の迸るままに口走っているようだ。後半を聞いて「あ、やっぱり」と小さく呟きつつ、ジュナスは屈みこんでネリィに語りかける。  「そんなに気にすることないってネリィ。俺だって、隊長の幽霊とか出てきたら怖いしさ」  「……ジェシカさんはまだ生きておられますでしょう?」  少し言葉に詰まりながらも、ネリィはそう言ってくる。ジュナスはどことなくほっとした顔で、  「いやぁ、あの人ならきっと死んでも『訓練はどうしたー!』って枕元に立つんだぜ。んで死んだから体力無限だっつって俺らが倒れるまで追い掛け回して来るんだよ。うわ、嫌だなーそれ」  喋っているうちに本気で嫌になってきたらしく、ジュナスは青い顔で、  「そんなことになる前にお札用意しとかなきゃなぁ。まあ隊長が死ぬなんてあり得ないから使う機会ないだろうけど。ネリィ、今度一緒に買いに行かない?」  「……そのお札、どこに張るんですの?」  ちらりと、赤い目でジュナスを見て、ネリィが言う。ジュナスは「うーん」と唸ったあと、  「あ、あれだ、まず真っ先にミンチ・ドリルに張っておかなきゃ。あれにジェシカ隊長が取り憑いたらなんて、考えるだけでも恐ろしいや」  「……プッ」  とうとう、ネリィはベッドに顔を埋めたまま笑い出した。泣くのと笑うのを同時にやっているためか、ときどき咳き込んだりもする。ジュナスは背中をさすってやりながら、  「……落ち着いた?」  「……ええ、少しは」  鼻をすすり上げながら言い、ネリィは体を起こした。ジュナスに頭を下げながら、  「……取り乱してしまってごめんなさい」  「いや、いいって。それより、早く行かないと」  「……でも」  「やっぱり怖い?」  ネリィは顔を赤くしながらも、今度は素直に頷いた。ジュナスは難しそうな顔で首を捻り、  「……あ、そうだ」  と、名案を思いついたという顔で手を打った。  「じゃあさ、俺もついてくよ」  「え、ジュナスが?」  ネリィが軽く目を見張る。ジュナスは「そうだそうだ、その手があったな」と嬉しそうな顔だ。  「よろしいんですの?」  「うん。俺も久しぶりにキリシマさんに会いたいしさ」  その言葉を聞いたネリィの顔が、急速に硬くなっていった。  「? どうしたの?」  「……ジュナス」  そう言ったネリィの顔は、どことなく悲壮な覚悟に満ちているようだった。  「やっぱり、私一人で行きますわ」  「え? いや、別に俺のことは気にしなくても」  「違いますわ。そういうことではなくて……いえ、ついてきてくださるのは……その、非常に……ありがたいんです、けれど」  少し顔を赤くしてそう言ったあと、今度は青くなって  「……死ぬのは私一人で充分ですわ」  「……はい?」  訳が分からない、という顔で、ジュナスは聞き返す。ネリィは震える体を押さえつけるように、両手で肩を抱きながら、  「あ、あのフローレンス姉様との約束の刻限に遅れていくだなんて……そんな真似をしたら、私は……」  「……あのー、ネリィ? キリシマさんって、そんなに怖い人なの?」  「そりゃもう!」  と、ネリィは顔面蒼白で思い出を語りだす。  「あれは、私が離死手亜に入隊して間もない頃……当時、隊内でもはみ出し者だった男が一人、集会の時間に遅れてやって参りましたの」  「り、りしてあ? あのネリィ、何の話……」  「遅刻しても全く悪びれる様子のないその男に、フローレンス姉様が何をしたと思います!?」  ネリィは青い顔をずいっとジュナスに近づけてくる。ジュナスは思わず仰け反りながら、  「わ、分かんないけど……」  首を振った。ネリィは口にするのも恐ろしいという顔で、  「まず、歯が全部折れるまでその男の顔面を殴打して……」  「は」  「気絶しないようにと気をつけながら全身の骨と言う骨を折り……」  「え」  「簀巻きにしてバイクで公園中を引き回し……」  「い」  「しまいにはそのままコロニーの外へ放り出そうと」  「う」  今度はジュナスも青くなった。  「そ、それで、結局……?」  「さすがに殺してはまずいだろうと全員で慌てて止めたので、幸い男は死にはしなかったのですけれど……それ以来、我が隊は遅刻者ゼロのチームになったのですわ」  「そ、そんな怖い人だったのかフローレンスさん……」  「いえ、普段はとてもお優しくて、何よりも仲間を大事にする素晴らしいお人なのですけれど、その……」  「怒らせると怖い?」  「怖いなんて生易しいものじゃありませんわ」  ネリィは言い切った。数秒、室内が沈黙に満ちる。その間、ジュナスとネリィは無言で青い顔を見合わせていたが、やがてジュナスがふっと笑い、  「そういう話を聞いちゃ、ますます一人で行かせるわけにはいかないよ」  「ジュ、ジュナス……」  いたく感動したような目で、ネリィはジュナスを見つめた。ジュナスはその視線を真っ向から受け止め、  「死ぬときは一緒だ、ネリィ。何たって仲間だもんな、俺たち」  と、頼もしく言ってみせた。が、途端に弱気な顔つきになり、  「ちゃんと謝れば許してもらえるかもしれないしさ……希望は捨てないでおこうよ……」  「そ、そうですわね……」  二人は泣きそうな顔で、しばらくの間その場に立ち尽くしていた。  入室許可を得たブラッドが艦長室に足を踏み入れたとき、エターナは楽しそうにデスクの上の端末を見ているところだった。  「何をしている?」  「ブラッドさん。これ、見てくださいよ」  やたらと嬉しそうに手招きするエターナに誘われるまま、ブラッドはデスクの向こうに回りこみ、モニタを覗き込む。  「……何だこれは」  「医務室の映像ですよ」  モニタには、これから特攻に行くかのような表情で立っているネリィとジュナスが映っていた。エターナは頬に手を当てて微笑み、  「若いっていいですねぇ……」  どうやら、ネリィとジュナスの様子をずっと見ていたらしい。防犯及び防衛の必要上、艦内の至るところに小型の監視カメラが仕掛けてあるのだ。もちろん船員の個室やトイレ、更衣室などには設置されていないが。  「……暇人が」  呆れた様子でブラッドが言うと、エターナは軽く頬を膨らまして、  「暇じゃありませんよー。ようやっとお仕事がひと段落つきそうだったので、ちょっと息抜きに艦内をモニターしてただけですよー」  エターナはデスクの脇にある書類の山を指差してから、  「だいたい、情報収集が趣味だなんて言ってる人に文句言われたくないですよ」  「目的意識の違いだ。生憎、私は野次馬に人生を賭けているつもりはない」  「私だって賭けてません。ところで……」  と、エターナは少し首を傾げ、  「何か御用ですか?」  「……まあ、新情報といったところか」  エターナの目が一変して鋭くなった。  「何か、分かったのですか?」  「偽装船の情報だ」  「偽装船?」  「ああ。この数ヶ月ほど、民間の輸送船などを装った船舶が、頻繁に地球圏に出入りしている」  「……木星からの船、ですか?」  「それだけではないが、まあその方面からの船が中心になっているな」  「それで、積荷は?」  「言うまでもないだろう」  ブラッドは肩を竦める。エターナはため息を吐いて、  「……そんなことをしている場合ではないと言うのに……人間というのは、いつになっても争いを忘れられない生き物なのですね……」  「そんな哲学には大して興味がないが……私も、聞きたいことがあってな」  「? 珍しいですね」  「最初に交換条件と言ったろうが。今ので、私が提供した情報と貴様から得たい情報の価値がちょうど吊り合ったのでな」  素っ気無い物言いに、エターナは苦笑する。  「どういう基準なんですか、その情報の価値って……それにしても、変なところで律儀ですよね、ブラッドさんって」  ブラッドは小さく鼻を鳴らした。  「フン……貴様ほどではないさ。もう覚えている者もいない過去の盟約に、一体あと何百年従うつもりなのだ?」  その言葉に、エターナは目を細めた。口元に淡い微笑が浮かぶ。  「そう……そんなことも、ありましたね」  ブラッドが怪訝そうに眉を傾ける。  「今は違うとでも?」  「少なくとも、盟約があるからというだけで、こんなことをしているという訳ではありませんね」  エターナは困ったように笑い、  「ところで、聞きたいのはそんなことですか?」  「いや、違う。が……」  ブラッドは首を振ってから少し考え込むと、くるりと踵を返した。エターナは少し慌てて立ち上がり、  「え、どうしたんですか!?」  ブラッドは肩越しにちらりとエターナを見て、  「交換条件だと言ったろう。今聞いたことで、お互いにやり取りした情報の価値が吊りあわなくなった」  「……私が勝手に話しただけなんですけど」  「理由が何だろうと、私がお前に何かを聞いたことに変わりはない」  ブラッドはあくまでもこだわりを崩さない。エターナは呆れた顔で、  「……ホント、ブラッドさんって変な人ですね」  ブラッドはにやりと笑い、  「私なりの美学というやつだ。ではな。ああそうそう」  と、ブラッドは外に足を踏み出しかけたところで一度振り返った。  「一つ言っておく」  「何ですか?」  「覗き趣味はババアの証拠だぞ」  「誰がババアですか!」  怒鳴るエターナには構わず、ブラッドは悠然と部屋を出て行った。「もう」と、エターナはチェアに座りなおし、少しの間、ぼんやりと宙を見上げた。そして、おもむろにデスクの引き出しを開けて写真立てを取り出した。中には、精悍な顔つきの男性が微笑んでいる写真が収められていた。エターナは静かに微笑んだ。  「ハルト……今でも、私を見ていてくれますか……?」  呟き、目を閉じる。数秒そうやってから、自嘲気味に笑った。  「何も聞こえない、か。幽霊なんていないということなのか、それともやはり私はNTの出来損ないにすぎないということなのか」  エターナは写真立てをしまいこみ、気持ちを切り替えるように首を振った。そして、ため息を吐く。  「……さて、地球連合の偉い人たちに、輸送船に関する警告を出しませんとね……」  やれやれ、という表情。エターナはふと、端末のモニターに目をやる。ジュナスとネリィが、どことなくぎこちない足の運びで医務室から出て行くのが見えた。エターナは穏やかな目でそれを見守りながら、  「こらこらネリィさん、ずいぶん遅刻していますよ?」  悪戯っぽく呟き、エターナは「仕方ないですね」とでも言いたげな表情でメーラーを起動した。  宇宙に浮かぶコロニー内とは言え、昼間もあれば夜もある。ジュナスとネリィは、街灯の明かりが照らし出す道を歩いていた。現在時刻は十二時を過ぎている。現在二人がいるのはオフィス街だったが、さすがにこの時間ともなればほとんどのビルから明かりが消えてしまっている。帰宅ラッシュもとうに過ぎ、人の気配も全くない。  「なぁネリィ、そんなにビクビクしなくたって大丈夫だって」  困ったように言いながら、ジュナスは後ろを振り返る。  「そ、そんなことではいけませんわジュナス。お化けバイクが来たときに逃げ切れませんわよ!」  緊張した声で言うネリィは、ジュナスの服の裾を掴んで後ろからついてきている。いつでも逃げ出せるようにと身を屈め、きょろきょろと周囲を見回しながら歩くその姿は、まるで全身の毛を逆立てている猫のようである。ジュナスは後頭部を掻きながら、  「って言うかさ、相手はバイクなんでしょ? だったら、走って逃げだってすぐ追いつかれるんじゃないの?」  「うー……それはそうですけれど……」  赤い顔でネリィが呻く。ジュナスはため息を吐いて、  「だからワッパかエレカ借りようって言ったのに」  「あんな話を聞いたあとで!? もしその借りたのがお化けワッパとかお化けエレカとかで、突然自分の意思で動き出してビルとかに突っ込んじゃったらどうしたらいいんですか!?」  「どうしたらいいんだろうね」  興奮して喚くネリィに、ジュナスは首を傾げるしかない。  「でも、幽霊って、そんなに怖いもんかなぁ」  不思議そうにそう言うジュナスに、ネリィは拗ねた様子で口を尖らせた。  「フン、どうせ私は臆病な女ですわ。笑いたければ存分に笑えばよろしいでしょう?」  「いや、そういう意味じゃなくて。なんていうかさー」  ジュナスはぽりぽりと頬を掻き、  「幽霊って、本当にいるなら会ってみたいと思わない?」  「え」  「そりゃ、隊長の幽霊とかは勘弁だけどさ」  笑ってそう言うジュナスに、ネリィは怪訝そうに、  「……誰か、お会いしたい方でもいらっしゃるんですの?」  「うーん」  ジュナスは少し考えてから、  「父さんと母さん、かな」  「……ご両親? では」  「うん。俺がちっちゃいころに事故で死んじゃってさ」  事も無げにジュナスは言う。あんまり覚えてないから、もう悲しくはないんだけど、と続け、  「ただ、ちょっと会って話してみたいかなあって。何となく、心配性だったような記憶があるんだよね、母さん」  「だから、自分は元気だと伝えたいと?」  「うん、まあそういうこと」  ジュナスは微笑みを浮かべて頷き、  「ネリィはさ、幽霊がいるなら会いたい人っている?」  「私、ですか?」  ネリィはほとんど間を置かずに、  「お父様に……」  と答えた。ジュナスは少し驚き、  「え、じゃあネリィの父さんも?」  「ええ」  ネリィの瞳が憂いに陰る。ジュナスは少し申し訳なさそうに、  「ごめん、聞いちゃいけないことだったか」  「いえ、そんなことはありませんわ。ただ、父にはもう会えないということを再確認すると、少し寂しくて」  「どんな人だったの、ネリィの父さん。ああ、話したくなければいいんだけど」  「構いませんわ。そうですわね……」  ネリィは思い出すように遠くを見て、懐かしそうに微笑んだ。  「立派な方でしたわ。優しくて思慮深くて、責任感が強くて。何よりも、誇りに満ち溢れていましたから」  「尊敬してたんだ?」  「ええ、もちろん」  ネリィは楽しそうに頷く。  「私、幼い頃は政治家になるつもりでしたのよ。父の仕事をお手伝いしたいと思って」  そこまで言って、ネリィはふと思い出したように、  「そういえばジュナス、あなた、私の家のことを知っているご様子でしたけれど」  「え? ああ、あれね。ほら、ちょっと前に、ネリィの名前が書いてあった筒を届けたじゃない」  シャロンからもたらされた手紙入りの筒のことだ。ネリィは頷いた。  「あれに紋章が描いてあっただろ」  「では、あの……クォーツ家の紋章のことを知っていらしたの?」  ネリィは軽く目を見張った。ジュナスは嬉しそうに頷きながら、  「俺、住んでたコロニーで新聞配達のアルバイトやってたときがあってさ。それで、毎朝でっかいお屋敷の前を通ってたんだけど、そこの門にあの紋章が描いてあって」  「多分、それは私の家ですわ……でも、そうすると」  ネリィは幽霊のことも忘れたように、ジュナスの前に回りこみ、彼の顔を指差した。  「私とあなた、ひょっとして同郷だったんですの!?」  「そうなるね。シェルドもだけどさ」  ジュナスは嬉しそうに笑い、頭の後ろで両腕を組んだ。  「いやぁ、俺も最初に気付いたときはびっくりしたよ。こんな偶然なんてあるもんなんだなって」  「そうですわね」  ネリィも呆気に取られている様子だ。  「これってあれだよな。奇跡ってやつ?」  はしゃいだ様子で、ジュナスは言う。その隣を歩くネリィの頬も、少し赤みを帯びてきた。  「ホント、偶然ってあるものですわね。同じコロニーの出身者、しかもここから遠く離れた木星圏のコロニーの出身者が、同じ会社の同じ船に乗り込んでいるだなんて」  二人はしばらく無言で歩いた。どちらも、頬を上気させ、少し興奮した面持ちである。しかしジュナスは不意に、  「あ」  と、何かに気付いた様子で口を開けた。  「どうしたんですの?」  ネリィが不思議そうに首を傾げる。ジュナスは「しまった」という表情で、  「ってことは、ネリィって貴族のお姫様だったんじゃないか!」  「? ええ、そうですけれど」  特にためらいもなく、ネリィは頷く。  木星圏は、地球からかなり離れているだけあって、文化様式も地球のそれとは大きく異なる。彼等木星公国の民は、政治を担当し国を先導する者を貴族と呼び表し、一般市民を平民と称しているのである。  ジュナスは「参ったなぁ」と頭を掻きながら、  「いや、俺、貴族じゃないからさ。母さんたちが死んでからはずっと孤児院暮らしだったし……ネリィみたいな身分の高い人と離すのって、やっぱりまずいんじゃないのかなぁ」  すっかり困りきった様子のジュナスに、ネリィは小さく苦笑を零す。  「それは木星圏でのお話でしょう? ここは地球圏、今の私たちは貴族のネリィ・フォン・クォーツと平民のジュナス・リアムではなくて、単なる一会社の同僚同士に過ぎませんわ。そんなこと、気にしなくてもよろしくてよ」  「そう? そっか、良かったぁ」  ジュナスはほっと息を吐く。ネリィは怪訝そうに、  「どうしてそんなに心配だったのです?」  「ん……いや、昔、孤児院の仲間が貴族の子供と揉め事起こしちゃってさ。それでいろいろ大変だったから」  「揉め事……一体、どんな?」  「何か、道でぶつかったとか何とか。きっかけは些細なことだったらしいけど」  ネリィは眉を吊り上げた。  「あなたは私がそんなに心の狭い人間だと思ってらしたの!? 侮辱ですわ!」  「ご、ごめん。そういうんじゃないんだけど。その時以来、俺らの間じゃ『貴族に逆らったらひどい目に遭わされる』っていうのが共通の認識だったから、つい身構えちゃうんだろうなぁ」  慌てて謝るジュナスに、ネリィはため息を吐いた。  「そうでしたの……人の上に立つ者として、その名に恥じぬよう振舞うのが貴族の役目だというのに。情けない限りですわね」  ネリィの表情が暗くなったのを見て、ジュナスは慌ててフォローに入る。  「あ、でもさ、貴族だっていろいろだって分かったよ、今。ネリィはいい人だし、それにネリィの父さんも立派な人だったんだろ?」  「え、ええ……私はともかく、父は貴族の鑑のようなお人でしたわ」  「へぇ、そうなんだ。じゃあさ、ネリィの母さんって」  「人間の屑ですわ」  一転して不機嫌な表情になったネリィが、吐き捨てるように言う。  「強欲で、自分勝手で、人を人とも思わない……あんな女、さっさとくたばって地獄に落ちればいいんだわ」  瞳に激しい怒りをたぎらせ、ネリィは呪うように言う。ジュナスは呆気に取られた。ネリィははっとして、  「あ、ごめんなさい。あの女のことを思い出したら、つい」  「え、あ、いや……そんなに、嫌いなんだ?」  ためらいがちに聞いてくるジュナスに、ネリィは迷いながらも頷いた。  「正直言って、顔も見たくありませんわ。そもそも、私がこんなところにいるのも、母様に反発して家を出たからで……」  言いかけて、ネリィはふと苦笑する。ジュナスは目をぱちぱちさせた。  「どうしたの、急に」  「いえ、こんな風にペラペラと自分の事情を話しているのがおかしくて。どうしてかしら、ジュナス。あなたといると、つい何でもかんでも話してしまいそうになりますわ」  ネリィは困惑しているように言う。しかし、表情に不快さはない。ジュナスは首を捻り、  「うーん、やっぱ、同郷だからじゃない? だから少し安心しちゃってるんじゃないのかなぁ」  「そう? そうかしら……」  ネリィは不思議そうに頬に手を当てた。それから、思いついたような表情で、  「ね、ジュナス。でしたら、あなたの家のことも話してくださらない?」  「え、俺の家?」  ジュナスが驚いた様子で、自分の顔を指差す。ネリィは好奇心に満ちた瞳で頷いた。  「そう。あなたの。孤児院なのでしょう?」  「まあ、ね。だけど、あんまり面白くないと思うけどなぁ」  「興味がありますのよ。どんな環境で育ったら、あなたみたいな人になるのか」  「何それ……まあいいや。んーと……」  ジュナスはぽりぽりと頬を掻き、思い出すように目を上に向けながら、  「とりあえず、割と貧乏だったかなぁ。時々ご飯出ない日とかあったし、壁とかもボロボロだし、何より人が多いから狭かったしさ」  「どのぐらいいらしたんですの?」  「俺をいれて……うーんと、子供が十三人ぐらい、かな」  ひいふうみい、と指折り数えて、ジュナスは言う。ネリィは少し驚いた様子で、  「そんなに?」  「うん、まあ。時期によっても違うんだけどね。時々養子にもらわれてく奴もいたし。俺とシェルド、それからパティっていう女の子の三人が一番年長でさ。ちっちゃい子とかの世話もしてたけど、これがうるさくてさー。ホント、騒がしい毎日だったよ。まあ、今だってその点は大して違いがないけど」  「ふふ、そうですわね。特にあなたの周りには艦内でも一番やかましいのが揃ってますもの」  話しながら、二人は大通りを右に曲がる。そこもまだいくらか広い通りだったが、辺りはしんと静まり返っており、聞こえてくるのは二人の話し声と靴音だけだ。  「それと……ああそうそう、この人のことは話しとかなくちゃな。俺らの親代わりだった人。グレッグっていう名前なんだけど」  「グレッグさん?」  「そう、グレッグおじさん。どんな人だと思う?」  「ん、と。孤児院の院長さんですから、優しい風貌のご老人のような」  ネリィがそう言うと、ジュナスはおかしそうに笑い、  「全然違うよ。もう熊みたいなでっかいおじさんでさ。その上顔が凶悪なもんだから、ちっちゃい子おんぶして買い物なんかに行こうもんなら、間違いなく通報されてたと思うよ」  「まあ、そんな人が?」  「そ。しかも加減知らないから、頭撫でられると首が折れそうになるし、抱きしめられると背骨が砕けそうになるし」  「ぱ、パワフルなお人でしたのね……」  壮絶な体験談に、ネリィの笑顔も少し引きつり気味である。ジュナスは苦笑いを浮かべて、  「まあ、すっごいいい人だったから、皆グレッグおじさんのことが大好きだったんだけどね。でも、そんなたくましいおじさんが、俺が十二のときにぶっ倒れてさ」  「え、どうして?」  「過労……っつーか、栄養失調かな? 俺らを飢えさせまいと、自分の食事を抜いたりしてたんだってさ」  「まあ、ご立派な方でしたのね」  「うん。でも、俺たちおじさんのすぐ傍にいたのに、そんなの全然気付かなかったんだ。それが凄いショックでさ。それでしばらく、シェルドと一緒に新聞配達とかいろいろやったんだけど、全然足しにならなくて。で、いろいろ考えた挙句、シェルドを誘って孤児院を出ることにしたんだ。そうすりゃ食い扶持が減って楽になると思って。パティには黙ってた。孤児院の皆にはお母さんが必要だと思ったから。シェルドはちょっと驚いてたけど、『君みたいなのを一人で行かせるなんてぞっとするよ』なんて言いながらも、結局はため息混じりについてきてくれたんだ。それから何日か宇宙港の周りで野宿して、オンボロの貨物船に潜り込んだ。密航はすぐばれちゃったけど、船長さんが優しい人でさ。俺たちの事情を聞いたら、地球圏までは乗せてってやるって言ってくれたんだ。それから色んなコロニーを転々として、色んな仕事をやった。それで、1年ぐらい前にキリシマさんに誘われて、Gジェネレーションに入ったって訳」  歩きながら夢中で話すジュナスを、ネリィは黙って見つめていた。ジュナスは「あ」と声を漏らし、慌てて、  「ごめん、何か俺ばっかり喋っちゃって」  「いいえ、とても……楽しいお話でしたわ。お聞かせ下さって、ありがとうございました」  そう言って、ネリィはふわりと微笑んだ。ジュナスは照れくさそうに鼻の頭を掻き、  「そ、そう? ……でも、何だかな」  ジュナスはくすぐったそうに目をそらす。ネリィは不思議そうに首を傾げ、  「どうかなさいました?」  「いや、何かさ。今の笑い方見てたら、やっぱネリィってお姫様なんだなぁって思って」  「突然何を仰いますの」  ネリィは口元に手を当てて、くすくすと笑う。ジュナスは首筋に手をやって、困った様子で、  「ホント、どうかしてるや。こんなこと言うなんて」  照れ笑いを浮かべながら、頭上を見上げた。コロニー内とは言え、夜空にはたくさんの星が輝いている。ジュナスはうんと背伸びして、  「あー、何か、急に孤児院に帰りたくなってきたなぁ」  ネリィの唇が優しく緩んだ。  「あんなにたくさん話したからですわね」  「ネリィは家に帰りたいとか思わないの?」  ちらりとネリィを見て、ジュナスが聞く。ネリィは瞳に懐かしげな色を浮かべ、  「そう、ですわね。そう思うこともありますわ。会いたい人だっていますし……でも」  「でも?」  ネリィの横顔に、厳しい感情が現れた。  「あの女が……ラビニアが生きている限り、私があの家に戻ることはないでしょう」  「ラビニアって……」  「あの女……いえ、母様の名前ですわ」  憎憎しげに、ネリィは答えた。ジュナスは困ったように再び頭上に目を移し、  「そっか。そんなに嫌いなのか」  「ええ」  ネリィは即答する。ジュナスは苦笑しながら、  「でも、家自体は嫌いじゃないんだろ?」  「それは、ね。あの屋敷には、私の思い出が詰まっていますもの」  再びネリィの顔が穏やかになったのを見て、ジュナスはほっと息を吐き、  「会いたい人って、誰?」  「そうですわね……」  ネリィはあごに指を当てて考え出した。  「まず、下男……と言うか世話係だったベイツでしょうね。いろいろ迷惑かけましたし、屋敷を出るときには相談も何もしませんでしたから。きっと、心配していると思いますわ」  「ふーん……あ、そうだ。ネリィは兄弟いないの?」  急に思いついたように、ジュナスは聞いた。ネリィは目を瞬かせる。ジュナスは両手を広げて、  「ほら、俺、兄弟がたくさんいたみたいなもんだからさ。帰ったらあいつらとも会いたいし……それで、ネリィはどうなのかなと思って」  「兄弟……」  ネリィはどこか遠くでも見るように、呆然と呟いた。足も止まっている。意識がどこか遠くに行ってしまったようだ。ジュナスは怪訝そうに、  「……ネリィ?」  呼びかけられて、ネリィははっとしたようだった。慌てて表情を取り繕い、再び歩き出しながら、  「ごめんなさい、何でもありませんわ。それで……兄弟、でしたわね」  「うん」  ネリィは少し迷いながらも、  「……妹が、一人おりますわ」  「へぇ、妹か……」  呟き、ジュナスは少し考え込むような表情になった。ネリィが眉をひそめて、  「どうかなさいました?」  「いや、ネリィの妹って……やっぱり、バイクとか乗り回したりする訳?」  それを聞いて、ネリィは一瞬きょとんとしたあと、ぷっと吹き出した。  「全然違いますわ。あの子は私と違って……そう、おとなしい、貴族の令嬢らしい子でしたもの」  「ん……まあ、確かにネリィはおとなしくはないけど。そっか、そんな子か」  「ええ。最初に会ったとき、あの子はまだ十歳にもなっていなかったはずですけれど……その当時から、すぐに社交界デビューできるほど、完璧に淑女としての教養を身につけておりましたのよ」  「最初に会ったとき?」  ジュナスは不思議そうに首を傾げる。ネリィは頷き、  「事情は未だによく分からないのですけれど……私とあの子、その年になるまで一度も会ったことがありませんでしたのよ」  「へぇ。何か、変な姉妹だったんだな」  「顔も知らない兄弟だなんて、貴族の世界ではよくあることでしてよ。でも、そんな姉妹だったからこそ、私たちはあまり似ていなかったのかもしれませんね」  ネリィは懐かしそうに目を細める。  「本当に、あの子は何をさせても完璧にこなしてみせた。紅茶の淹れ方も、ダンスの作法も、編み物や縫い物だって。そうそう、あの子、特にヴァイオリンを弾くのが得意でしたのよ。私もよく聞かせてもらっておりましたわ」  ネリィは楽しそうに語る。ジュナスは興味津々に聞いていたが、ふと、  「ネリィは弾かないの?」  と聞いた。ネリィは決まり悪そうに目をそらし、  「……殴るのは得意でしたわ」  「……ヴァイオリンで?」  「……ええ」  ジュナスはプッと吹き出した。ネリィが唇を尖らせる。  「ご、ごめんごめん。何か、想像したらおかしくてさ。でも、ホントに似てない姉妹だったんだなぁ」  「そう、ですわね。何よりも、あの子は美しかった。まるで、人形のように……」  呟きながら、ネリィは俯き、目を細める。  (……違う。人形のように、じゃない。あの子は、人形そのものだったんだわ……)  思い出す。森を駆け抜け、別館のあの部屋の窓を覗き込むと、どんな日でも必ずシャロンがいた。いつも同じようにヴァイオリンを弾き、ダンスの練習をし、真剣な表情でお茶を淹れていた。まるで、それが自分の使命だとでも言うように、シャロンはあの部屋から一歩も出なかったのだ。  (……一体、何のために? いえ、誰のために?)  そこでふと、ネリィは自分が深く考え込んでいたことに気がついた。そして同時に、ジュナスが黙り込んでいることにも。  「ジュナス?」  見ると、隣からジュナスの姿が消えている。振り返ると、彼は数メートルほど後方で、ぽかんと口を開けて立ち止まっていた。  「? どうかなさいました?」  答えはない。何か、前方に気を取られているようだ。ネリィは振り返り、再び前を見た。  二人で話し込んでいる内に、かなりの距離を踏破していたようである。そこはもう既に、Gジェネレーションの支社から100mも離れていない地点だった。両脇には明かりの消えた雑居ビルが立ち並び、等間隔で設置された街灯だけが、道路をぼんやりと照らし出している。  だが、そんな物を見ている余裕は、今のネリィにはなかった。ジュナスが見ているものを、ネリィも目撃してしまったのである。  それは、バイクだった。人を乗せていないバイクが、歩道の真ん中をゆっくりとこちらに向かってきている。  「交通法違反だー……」  ジュナスが的外れなことを呟く。しかし、ネリィからの突っ込みはない。ネリィの目は大きく見開かれ、視線は無人のバイクに釘付けになっていたのだ。全身が硬直し、顔を嫌な汗が滑り落ちていく。その間にも、バイクは着実に二人との距離を詰めてくる。大型で、派手なカラーリングを施されたバイクだった。排気ガスを出しているようには見えないが、何故か低いエンジン音だけが聞こえてきている。どうやら、わざわざスピーカーをつけて偽者のエンジン音を鳴らしているらしい。  その時、前方5mほどの地点で不意にバイクが停止した。少し考えるような間を置いて、前部のライトに明かりが灯る。強い光が、呆気に取られて立ち尽くす二人を明るく照らし出した。  そして、獣の咆哮のようなバイクの擬似エンジン音と、振り絞るようなネリィの悲鳴が、重なり合って真夜中のオフィス街に響き渡った。  どこか、ずっと遠くのほうから聞こえてきた悲鳴に、シャロンは薄らと目を開けた。  「……ネリィ姉様?」  呟き、簡素なベッドの上で身を起こす。窓のブラインドをそっと押し開いたが、暗闇に沈む町には特に変わったところは見られなかった。  「……夢の中で聞いたのかしら?」  シャロンは小さく首を傾げ、するりとベッドから降り立った。身支度を整え、同室者にばれないように、音も立てずに部屋を出る。隠れ家……廃墟と化したビルの中は、ひっそりと静まり返っていた。短い廊下を渡り、階下に下りる。  「あれ、どうしたの?」  ロビーに降り立つ前に、声をかけられた。元は受付が座っていたであろうカウンターに、小柄な少女が腰掛けていた。肩をむき出しにした露出の高い服を着ている、口元のほくろが印象的な少女である。階段から降りてきたシャロンを、少し驚いて見ていた。  シャロンはそんな少女を汚いものでも見るような表情で一瞥したあと、  「少し寝苦しかったものですから。お散歩してきますわ」  「ダメー!」  少女……パティは、勢い良く椅子から立ち上がった。  「ダメだよ、そんなことしちゃ。見つかったら大変だもん。今のアタイらの状況、分かってない訳じゃないっしょ?」  口調はのんびりしているが、瞳は真剣そのものだ。シャロンは不機嫌そうに鼻を鳴らし、つかつかとカウンターに歩み寄る。パティを昂然と睨みつけ、  「お黙りなさい。あなたごときが、この私にそんなことを言える身分だとでも思っているのですか? 身の程をわきまえなさい」  パティは少し困った顔で、  「えー……でも」  「あら、まだ何か言いたいことがありまして? それとも、後で鞭打ちされるのをお望みかしら?」  シャロンは嗜虐的な微笑を浮かべてそう言う。パティは嫌そうな顔をしながらも、  「だけどさ、こんな夜中に女の子一人で出歩くなんて、危ないと思うけどなぁ」  「女の子?」  シャロンは怪訝そうに呟いたあと、口元に手を当ててさもおかしそうに笑い出した。  「オホホホホ、何を言い出すのかしら、この小娘は? 私とて軍人ですわよ。下賤の輩など、この身に指一本触れることなく返り討ちですわ」  「うーん……いや、そうだとは思うんだけど」  一応認めながらも、パティは腕を組んで首を傾げ、  「何となく、嫌な予感がすんだよねー……」  呟くように言った途端、突如としてシャロンの瞳に怒りの火花が散った。彼女のしなやかな手が宙を走り、パティの頬を激しく打ち据える。乾いた音が廃ビルのロビーに響き渡った。驚きのあまり言葉を失っているパティを、シャロンは憎悪に歪んだ表情で見下ろした。  「……フン、嫌な予感がする? 自分はニュータイプだからこの私よりも優秀だとでも言うおつもり?」  「そんなんじゃ」  「お黙り!」  抗弁しかけたパティの頬に、シャロンは再び平手を見舞う。赤くなった頬を押さえて黙り込んだパティを、シャロンは刺々しい視線で睨みつけながら、  「これだから、下賤の者など信用できないんですわ……あなたなど、本来ならばこの場にいることなど到底できない卑しい存在なのですよ? 私の下女として使うのも憚られるほどの、ご自分の身分の低さをお忘れかしら?」  パティは反論せず、シャロンの傲慢な物言いをただ俯いて聞いている。シャロンはサドッ気のある、しかし余裕のない引きつった笑みを浮かべ、  「それともなぁに、かあさ……ラビニア・フォン・クォーツ様があなたに特別目をかけているから、何か勘違いされてらっしゃるのかしら? あなたがこの私よりも尊い存在だとでも?」  喋っている内に、シャロンの声は小さな震えを帯びてきた。怒りを湛える瞳は潤み、表情は苦痛を感じているように歪む。  「そもそも、あなたのような少し勘がいいだけの汚らしい女がこんな、母様に近いところにいるのが間違っているんだわ……私が母様に見て頂くために、どれだけの……!」  もはや、シャロンはパティなど見てもいなかった。追い詰められた表情で目を見開き、我を忘れたように憎憎しげに呪詛を吐き続ける。パティは痛ましげにそれを見つめていたが、やがて耐えられなくなったように、  「シャロン……」  小さな呼びかけに、シャロンはびくりと大きく体を震わせ、再びきっとパティを睨みつけた。瞳に憎らしげな色を浮かべながら、あえて余裕の表情を作り、両腕を組んでパティを見下ろす。  「……とにかく、あなたなど本来ならば汚らしい路地裏で寂しく野垂れ死にするような身分でしてよ。そんなか細い存在であるあなたが、ラビニア様の崇高なご慈愛により奇跡的にこの場に存在を許されているのだと……そのことを、よくよく胸に刻んでおくことですわね」  パティは何か言いたげに、上目遣いにシャロンの顔を見上げていたが、やがて小さく、  「はい」  と頷いた。シャロンは気にいらなそうに鼻を鳴らしてパティを一睨みすると、踵を返してビルの入り口から外へと出て行った。何かから逃れるかのような急ぎ足の靴音が、夜の闇の中へ遠ざかっていく。  パティはしばらくの間、シャロンが去っていった方をやりきれない瞳で見つめていた。  静まり返った町の中を、二人は右に左に逃げ回っていた。とは言え、死に物狂いで走っているのはネリィだけで、ジュナスは困った表情でそれについているだけだ。例のバイクは、そんな二人の後をぴったりと追いかけてきている。二人の走る速さに合わせるように速度を調整しながら。  「なぁネリィ」  声をかけてみても、返ってくるのは悲鳴ばかり。ジュナスは複雑そうな表情でちらちらと後ろを見ながらも、ネリィについていくしかない。  バイクは時折、値踏みするように二人に併走したり、前に回りこんで進路を塞ぐことさえあった。しかし、例の怪談話どおりに轢こうとはしてこない。  「な、なぶり殺しにするおつもりですの!?」  前方に立ちはだかるバイクから逃れるために踵を返しながら、ネリィが叫ぶ。ジュナスもそれを追いかけながら、だがネリィを呼び止め、  「ネリィってば。何か変だぞあいつ。俺達を殺すつもりとかはないんじゃないか?」  「甘いですわよジュナス! そうやって油断させる策略に決まっていますわ! 油断しているとあっという間にひき肉ですわよひき肉!」  「はぁ……」  ジュナスは走りながら後方を振り返る。バイクはどこか寂しげに、街灯が作り出す光の円の下で偽物のエンジン音を響かせている。ジュナスは釈然としない表情で、  「……やっぱ、何かおかしいと思うんだけどな……」  「ジュナス! もっと早く走らないと追いつかれますわよ!?」  ネリィがそう怒鳴ったので、ジュナスは渋々ながらもそれに従って駆け出した。  いくつもの曲がり角を曲がり、路地裏に飛び込み、塀を乗り越え、時には人の家の敷地すら横切る。そして、気がついたときには目の前に高い壁がそびえ立っていた。  「い、行き止まりぃ!?」  恐慌に彩られた表情で叫びながら、ネリィは必死で壁に縋り付く。しかし、入り組んだ路地裏の中に聳え立つその壁は見た目からして平らであり、足場になるところなどありそうもない。ネリィはやけくそ気味に壁を蹴りながら、  「何でこんな街中に袋小路があるんですの!? 欠陥工事ですわ!」  「落ち着きなってネリィ……」  ようやく追いついたジュナスが、息も絶え絶えにネリィをなだめる。ネリィはきっと振り返り、  「ジュナス、すぐに戻りますわよ!」  「……多分、遅いんじゃないかと思うけど……」  途切れ途切れに呟きながら、ジュナスは来た道を振り返る。「え」と引きつった声を漏らしながら、ネリィもそれに習う。  路地裏だからして街灯もなく、走ってきた道は完全に闇に閉ざされていた。その中から這い出るように、あのバイクの姿が現れた。  ネリィは瞳に発狂寸前の恐怖を浮かべ、路面にへたりこむ。かと思うと次の瞬間には勢い良く立ち上がり、腕を掴んでジュナスの体を引き寄せた。驚くジュナスを壁に押し付け、その背中に登ろうとする。  「ちょ、ネリィ、いた、痛いって!」  ジュナスの抗議も無視して、彼の肩に両足で乗ったネリィは、壁の頂上に向かって手を伸ばしつつ、  「じっとしてなさいなジュナス! あなたを踏み台にして脱出して、すぐに皆の助けを呼んでまいりますから!」  「俺ら二人分の身長で乗り越えられる壁じゃないってば、これ!」  その言葉どおり、ジュナスの肩にネリィが立っても、壁はゆうにあと1mはある。ネリィは歯軋りしながら、下に向かって怒鳴った。  「ジュナス、もう少し大きくなれませんの!?」  「無茶言うなよ」  「それでも男ですの、情けない。世の中にはきのこで巨大化するナイスミドルもいらっしゃるというのに!」  「何の話だ!?」  などとぎゃーぎゃー喚いている内に、下のジュナスがバランスを崩した。二人は揃って悲鳴を上げながら、地面に折り重なって倒れた。下敷きになったジュナスが、カエルが潰れたような悲鳴を上げる。  そんな二人を見下すように、バイクはゆっくりと近付いてくる。偽物のエンジン音で低く唸りながら。  ネリィが「ひっ」と小さな悲鳴を上げて、尻餅をついたままわたわたと壁際まで後退する。ジュナスは尻をさすりながら立ち上がり、バイクに向き直った。  「ああ、もうおしまいですわ……私たち、ここで念入りにぷちっとひき潰される運命ですのね……」  ネリィはさめざめと泣き伏している。しかし、ジュナスはその声が聞こえないかのように、じっとバイクに見入っていた。  「……案外、ボロボロだな」  呆けたように、ジュナスが呟く。ようやく立ち止まって観察できたためか、先ほどまでとは違うところに目がいく。バイクはやはり人を乗せていなかった。大型だが、それよりもまず各部にこびりついた汚れが目につく。しかし、噂話のような血の痕はなさそうだった。他にも破損している部位や剥がれ掛けたペイントやステッカーなどが見られ、見た目はまさに幽霊バイクといった感じではあるのだが。  バイクは、二人の少し手前で停止している。何かを待っているように、小さく唸りながら。  「……なあ」  ジュナスは呼びかけた。返事はない。構わず、続ける。  「お前、何がしたいんだ? 俺達に、何かしてほしいことでもあるのか……?」  心底、不思議そうな口調だった。その言葉から、恐れの感情は微塵も感じられない。  ジュナスの疑問に答えるかのように、バイクが発する唸りが、少しずつ小さくなっていく。  そして、ジュナスはその声を聞いた。  ――やっぱり、ダメか。  「え?」  ジュナスは目を見張る。その視線の先で、バイクはため息を吐くように、ゆっくりと前輪を後方へ巡らせた。  ――こいつらも、違う。  「違うって、何が……」  ――誰か、俺と走ってくれる奴は……  バイクは、完全に興味を失くしたように反転し、闇の向こうへ溶けるように消えていく。その後姿を見ながら、ジュナスは目を細めた。  「……寂しいのか、お前……?」  呟く声は、果たして届いたのかどうか。もはやあの声は聞こえず、バイク自身も止まることなく、二人の視界から消えてしまった。  そして後には、バイクの去った方を遠い目で見つめるジュナスと、座り込んだまま呆けたように目を瞬かせるネリィが残された。  「……え? えっと……あれ?」  すっかり混乱しきった面持ちで、ネリィがジュナスを見る。ジュナスは視線をバイクの去っていった方に向けたまま、  「……逃がしてくれた、みたいだな」  「え? ど、どうして……?」  ネリィは訳が分からないという顔をしている。ジュナスは少し驚いて、後ろのネリィを振り返った。  「ネリィ、さっきの声が聞こえなかったのか?」  「声……って、誰のです?」  ジュナスは首を捻った。  「気のせい……だったのか? でも、確かに聞こえたんだよなぁ」  少し考えてから、ジュナスは小さく息を吐く。  「ま、考えても仕方ない、か」  呟いたとき、誰かがジュナスの袖を引っ張った。振り向くと、ぺたんと座り込んだままのネリィがジュナスを見上げていた。表情を見る限り、恐怖は大分薄らいできたようだ。しかし、その顔には困惑がありありと表れている。  「あの、ジュナス? 一人で納得してないで、私にも教えてくださいません?」  「え? うーん……」  ネリィの問いかけに、ジュナスは困ったように頭を掻いて、  「……とりあえず、さ」  と、バイクが去っていった方を指差し、  「あいつ、俺達を轢き殺そうとしてたんじゃないと思うよ」  「え?」  ネリィの目が点になる。  「でも、殺された持ち主の復讐は……」  「そういうんじゃないと思うんだよなぁ、あれは。あのバイク見て、誰かが勝手に話を作ったんじゃないの?」  「どうしてそれがお分かりになられましたの?」  「ん? そりゃ、さっきの声が……」  言いかけて、ジュナスは口を噤んだ。幽霊の声が聞こえた、というので、ネリィが不安そうな顔をしていた。  「あー、まあ、あれだよ」  言葉を探すように目線をさまよわせてから、  「何となく、だな、うん」  ジュナスは一人頷いた。ネリィはもどかしそうに、  「それでは答えになっていませんわ」  「えー……でも、そうとしか言いようがないってーか……」  「もう……これだからニュータイプって」  「え、なに?」  「いえ、何でもありませんわ……」  答えたあと、ネリィは少し黙って考え込んでいたが、  「ジュナス」  「うん?」  「……あなたの仰ることが本当だとしたら……あのバイク、こちらに危害を加える気はなかった、と?」  「多分だけど」  ジュナスが首肯すると、ネリィは俯き、低い声で、  「……つまり、こちらが悲鳴を上げながら逃げ回るのを見て楽しんでいたと……」  「は? いや、それはちょっと話が飛躍しすぎ……」  ジュナスが苦笑しかけたとき、不意にネリィが小さく肩を震わせ始めた。笑っている。かすかな笑い声は、徐々に大きくなっていく。ジュナスはぎょっとして、  「ど、どうした、ネリィ?」  と、ネリィの肩に手を置きかけたが、彼女はそれよりも先に笑うのを止め、すっと立ち上がった。瞳から恐れの色が消え、代わりに怒りと闘志の炎が爛々と燃え盛っている。気圧されたように、ジュナスが一歩身を引いた。  「……」  ネリィは般若の如き目つきでバイクが消えた方向を睨みつけていたが、やがて無言で駆け出した。  「って、待てよネリィ!?」  彼女の背中を追って駆け出しながら、  「何か、今日は走ってばっかりな気がする」  ジュナスはため息混じりにぼやいた。  闇に包まれた路地裏を、シャロンは一人で歩いていた。コロニーの中だけあって、夜の空気は快適な気温に保たれている。静まり返った路地裏に、シャロンの靴音だけが小さく響き渡る。他に、音は聞こえてこなかった。  「……気のせいだった、か」  シャロンは不機嫌そうに鼻を鳴らし、ふと前方を見やった。路地は少し遠くの方に立ち並ぶ家屋により曲がり角になっていたが、そのずっと向こう側には、このコロニーの宇宙港が存在している。そして、そこにはGジェネレーションの所有する、宇宙戦艦グランシャリオが停泊しているはずだった。シャロンは目を瞑り、苛立たしげに軽く胸を押さえた。  「気が高ぶっている……ネリィ姉様が近くにいるから?」  シャロンの目つきが鋭くなった。  「今更、あんな女が私の障害になるものか。母様に反発して家を捨てたような女が……」  呟く声には苛立ちが混じっていた。シャロンは忌々しげに舌打ちを漏らす。  そのとき、多数の人間の靴音と、下品な笑い声が聞こえてきた。派手なアクセサリで着飾った一団が、前方の曲がり角から姿を現した。十人に満たない少数の集団で、髪を派手な色に染めたいかにもチンピラといった感じの風体をしている。先頭の一人がシャロンに気付き、口笛を鳴らして後ろを振り向いた。  「リーダー、女ッスよ」  「なに?」  訝しげな声と共に、一団の中から一人の男が抜け出してきた。傲慢な光を瞳に宿した、つり目の男だ。他の男たち同様派手な格好をしている。彼はシャロンの数歩手前で立ち止まり、物珍しげにじろじろと彼女を眺めた。  「おいお前、こんなところで何をしてるんだ?」  「リーダーリーダー、この時間に女が一人きりでこんなところを歩いてる理由なんて、一つしかないッスよ」  「なに?」  男は今ひとつ話が飲み込めない様子で眉をひそめる。先ほど進言した子分が、にやにやしながら腰を前後に振ってみせた。男はようやく理解したらしく、  「ああ、そういうことか」  と、いやらしい笑みを浮かべた。他のチンピラたちも口笛を吹いたり笑い声を上げたりして好き勝手に騒ぎ立てる。シャロンの目があからさまな不快の色に染まったが、男は気付かない様子で近付いてきた。  「ふん、こんな夜中に男を誘うなんて、可愛い顔に似合わず好きなんだな、お前」  男は無遠慮に手を伸ばしてくる。シャロンは表情を変えずにそれを払いのけた。男の顔が怒りに歪む。  「お前っ……どういうつもりだ、自分から誘っておいて!?」  シャロンは無言で、ハエでも見るような鬱陶しげな目つきで男を睨んでいる。男は幾分か冷静さを取り戻した様子で、気障ったらしく髪をかきあげ、  「ふん……まあいいさ。どうやら、この俺が誰だか分かっていないらしいからな。いいかよく聞け、俺はこの一帯を支配してるチームのリーダー、ニール……」  得意げな口上を最後まで聞くことなく、シャロンは男の脇をすり抜けて歩き出した。露骨に無視された男……ニールは、ついに怒りを爆発させ、  「おい!」  と叫んでシャロンの肩をつかもうとしたが、その前にシャロンが動いた。  肘鉄、裏拳、足払い。流れるようなシャロンの攻撃により、ニールは無様に地面に叩きつけられる。さらにシャロンは足でニールを仰向けにし、彼の股間を容赦なくヒールで踏みつけた。  声にならない悲鳴が響く。子分たちは間抜けに口を開けていた。あまりに速い展開についていけなかったらしい。  シャロンはそんな一団に一瞥もくれず、靴音を響かせてその場を立ち去った。後に残されたのは、困惑した表情で顔を見合わせる子分たちと、ぴくぴく痙攣しながら泡を吹いて気絶しているニールのみだった。  走り続けてすっかり疲れていたためか、ジュナスは途中でネリィを見失ってしまった。  「全く……ネリィの奴、何のつもりなんだ? いきなり走り出したと思ったら……」  道路の真ん中で立ち止まり、ジュナスは息を整える。そこは周囲に倉庫が密集する区画だった。宇宙港のすぐ近くである。ネリィが走り去った方向には、宇宙港があるのだ。  「一旦帰るって感じでもなかったしな、あれは。どうすんだろ、まだキリシマさんにも会ってないのに」  ジュナスは額の汗を拭い、息を吐いた。  「とりあえず、俺も船に戻って……」  言いかけたとき、ジュナスの耳に異音が聞こえてきた。今日散々聞かされて、既に聞きなれた感もある、バイクのエンジン音である。  「追いかけてきたのか、あいつ?」  後ろを振り返ったが、道路の両脇に立ち並ぶ倉庫群以外は、何も見えない。それもそのはず、音は逆方向から聞こえてきていた。  「回り込まれた?」  しかし、よく聞くと先ほどの幽霊バイクが発していた唸り声のような音と、今聞こえている音には差異があった。こちらの方が荒々しい響きだ。  「何だ……?」  ジュナスが首を傾げたとき、道路の向こうから、音の発生源が姿を現した。  やはり、バイクだ。しかし、先ほどの幽霊バイクではない。漆黒のボディに派手なカラーリングを施したそのバイクは、前部のライトをぎんぎんに光らせ、わざわざ偽物のエンジン音を鳴らしながら、ゆっくりとジュナスに近付いてくる。先ほどのバイクのボロボロの姿に比べれば、こちらは生命力に満ち溢れていると言っても過言ではない。そして、その暴れ馬のような機体に跨っている人影を見たとき、ジュナスはぎょっと目を見開いた。  「ネリィ!?」  車上の人となったネリィは、ジュナスが見たこともない、やたらと丈の長い白い服を着ていた。袖のところに「離死手亜」という文字が縫い込められている。ジュナスは慌てて、鋭い目つきで前方を睨み据えているネリィに近寄った。  「何やってんだよって言うかこれ何だ!?」  「ふふふ、それは僕から説明させてもらうよ、ジュナス君」  答えたのは、ネリィではなかった。見ると、ネリィの後ろからワッパでこちらに向かってくる人影がある。整備員のライルだ。心なしか、いつもより生き生きしているように見える。  「ライルさん、これって」  「ネリィちゃんの私物だよ。僕が預かって整備してたんだ」  ライルは得意げな顔でネリィの乗ったバイクを見ながら、声を張り上げた。  「しかも、ただ単に保守していただけじゃないよ。ネリィちゃんの要求に応じて、いろいろと改良を加えてあるんだ」  「たとえば?」  「速度や強度の向上はもちろんのこと、防弾性も向上してるんだ。これなら機関銃で撃たれたって平気さ!」  「いや、乗ってる人間は死んじゃうってそれ」  ジュナスは呆れて言ってから、黙ってバイクに跨っているネリィに聞いた。  「なあネリィ、こんな物引っ張り出してきて一体何するつもりなんだよ?」  「……愚問ですわ」  呟くネリィの声には、確かな闘志が宿っていた。  「貴族たるもの、受けた恥を百倍にして返すのは当然のこと」  「え、じゃあひょっとして、あいつと追いかけっこするつもりなのか!?」  「追いかけっこ? いいえ、これは決闘ですわ!」  ネリィは壮絶な笑みを浮かべる。瞳がぎらぎらと危険な光を放った。同調するようにバイクも唸り声を上げる。  「この私に耐え難い恥辱を与えた……その罪、万死に値する!」  「いや幽霊なんだから最初から死んでるっつーか、そもそも生き物じゃないしあれ」  「関係ありませんわ。あんなもの、一秒たりともこの宇宙に存在していることを許しておくものですか。必ずや蹂躙し、粉砕し、完膚なきまでに破壊して宇宙にばら撒いてやりますとも!」  ネリィは手のつけようがないぐらいに盛り上がっている。ジュナスは困った顔で、  「で、でもさ、あれ幽霊だろ? 怖くないかネリィって言うか怖いだろネリィ?」  「その点に関しては心配ご無用さ」  と、ライルが指を突き立て、  「ネリィちゃん、そこのボタンを押してみて」  ネリィがスピードメーターの横に増設されたボタンを押すと、左右のライトの間から何かが飛び出した。ドリルだ。  「それで幽霊を粉々にしてやりなよ!」  「いろいろ間違ってるだろそれ!?」  ジュナスの声はもはや悲鳴に近かったが、ネリィはうっとりした様子で、  「素晴らしい」  「え」  「さすがライルさん、私の趣味をよく理解しておいでですのね」  「はっはっは、技術者たるもの、お客さんのニーズに答えるのは当然さ!」  得意げに親指を立てるライルに、ジュナスはげんなりしながら、  「ネリィが頼んだのかよこれ」  「いや、違うよ。僕が勝手につけたのさ。こんなこともあろうかと!」  こんなこともあろうかと、の部分にやたらと力が篭っている。ライルはきらりと丸眼鏡を光らせながらジュナスに向き直り、  「ジュナス君だってドリルに憧れた時期があっただろう?」  「ないよ。っていうかどんな時期だよそれ」  「分かっておりませんのねジュナス」  と、ネリィは優雅にため息を吐いて、  「これが男の心意気というものですわ」  「そのとおり!」  ネリィとライルがにやりと笑い合う。ジュナスはうんざりしたように肩を落とした。  「さて、お喋りしている暇はありませんわ」  ネリィは懐から取り出した鉢巻きを頭に撒いた。額の部分に「特攻隊長」の刺繍がある。  「待っていなさいオンボロバイク、すぐに粉々にして差し上げますわ」  ネリィは鼻息も荒くそう呟いた。本来なら不要のエンジン音が高々と鳴り響く。ジュナスは心底嫌そうな顔で、  「この偽物のエンジン音も心意気って訳?」  「走り屋の魂ですわ」  「そうですか」  ジュナスはついていけないというように首を振る。そんなことをしている間に、準備は整ったらしい。ネリィはライルを見て、  「それでは、行って参りますわ」  「え、ちょっと待てよネリィ」  ジュナスが慌てて、バイクの後ろを掴む。ネリィは構わずバイクを発進させた。急加速。ジュナスの悲鳴を残して、二人を乗せたバイクが道の向こうへと消えていく。ライルは何度も頷きながら、満足げにその光景を見つめていたのだった。    「うおぉぉ……痛いぞぉ……」  涙目で呻いているのは、シャロンに大事な部分を踏みつけられたニール・ザムである。彼は今、先ほどの路地裏の隅にある家の壁を背にして、股間を押さえて座り込んでいた。周囲を部下たちが囲んでいる。  「大丈夫ッスか、リーダー」  チームの副長が、心配そうに問いかけてくる。しかし、そんな表情をしているのは彼だけだ。他のメンバーは、どこか呆れた視線である。それに気付いたのか、ニールは部下達を睨みつけ、  「何だお前ら、その目は」  部下達は顔を見合わせ、  「だって、なぁ」  「あんな細っこい女に簡単にやられるなんて」  「情けねぇよな」  と、小声で囁きあった。ニールは顔を赤くして立ち上がり、  「うるさい、黙れ! 女だと思ってちょっと油断……っおぉぉ!」  怒鳴りかけたニールが、股間を押さえてまた座り込む。部下たちが揃ってため息を吐いた。ニールはそんな彼らを涙目で見回し、  「何をボケッとしてるんだお前ら。サッサとあの女を俺の前に連れて来い」  「そりゃ無理ッスよリーダー、ありゃ化け物だ」  副長が言う。他の部下たちも「そうだよな」「プロっぽかったし」「無理ですよ」「諦めましょうよ」と、揃いも揃って逃げ腰である。ニールは癇癪を起こしたように、  「つべこべ言わずに行け! さもないと……」  言いかけて、ニールはふと眉をひそめる。副長が怪訝そうに、  「どうかしました?」  「静かにしろ。何か、変な音が聞こえないか?」  「変な音?」  ニールの言葉に、他のメンバーも口を閉じ、耳をすませた。確かに、かすかに聞こえてくる。排気ガスを出すような乗り物が原則的に禁止されているコロニー内では聞き慣れない、排気音混じりのエンジン音。それが、曲がり角の向こうから徐々に近付いてくる。  「何だ?」  怪訝そうに顔を見合わせる一同。ニールは顎でその方向を示し、  「おい、誰か見て来い」  しかし、誰も動かない。先ほどのことがあってか、皆及び腰である。ニールは苛立ち、  「このヘタレどもがっ!」  「だったらリーダーが見てきてくださいよ」  誰かが言う。他のメンバーも「そうだそうだ」と賛同の声を上げた。ニールのこめかみに青筋が立った。  「どいつもこいつもナメやがって」  「リーダー、俺が行ってきましょうか?」  名乗り出た副長に、ニールは首を振ってみせた。  「いや、俺が行く。このままではリーダーとしての面子が立たんからな」  ニールが憤然と立ち上がり、股間を押さえながら歩き出そうとしたとき、曲がり角から何かが飛び出してきた。それはバイクだった。まるでジャンク山から抜け出してきたようなボロボロの二輪車が、唸り声を上げながら人も乗せずに突っ込んでくる。しかし、そう認識したときには、既にニールは跳ね飛ばされていた。  「り、リーダー!」  副長の絶叫など気にも留めないかのように、幽霊バイクは反対側の曲がり角に消えていく。地に倒れ伏したニールがよろっと顔を起こし、  「だ、だいじょうぶ……」  言いかけた瞬間、再び曲がり角からバイクが飛び出してきた。今度は人が二人乗っていたが、こちらも減速など考えていないような速度でニールを轢いて、反対側の曲がり角に消えていく。こうしてその路地裏には、遠ざかる爆音をBGMに、地に倒れ伏したままピクピクと痙攣する男が残されたのだった。  「ねねねねね、ネリィー! 安全運転、安全運転ーっ!」  シートに跨るネリィの腰に必死でしがみつきながら、ジュナスは悲鳴を上げる。  「っていうか今轢いた! 誰か踏み潰したってば!」  「おほほほほ、ついに見つけましたわアンチクショウ! 粉砕粉砕木っ端微塵になりやがってくださいましぃぃぃぃ!」  ネリィが高笑いを上げる。瞳は前方の幽霊バイクだけをとらえ、ジュナスの声など聞いてもいないようだ。アドレナリンが精神を高揚させているのか、表情から恐怖が完全に消えうせていた。あるのは野獣のような凶暴な笑みだけだ。  「お、おっかねー……」  頬を引きつらせながら、ジュナスが呟く。ネリィはちらりとジュナスを振り返り、  「ジュナス、手伝いなさいな。私のサポートをするために乗り込んだのでしょう?」  「いや、止めるためなんだけど」  「つべこべ言わずに、さっさと奴を吹き飛ばすのです」  「どうやってさ?」  「あなたの足元に武器がついているでしょう?」  「武器?」  ジュナスは慎重にバランスを取りながら、自分の足元、つまりは車体の中央部を覗き込む。そして沈黙した。  「どうなさいました? さぁ、早くおやりなさいな」  「その前にさ。これ、何?」  「超小型ミサイル発射装置ですわ」  ネリィはさらりと言う。ジュナスは怒鳴り返した。  「何でそんな危ない物装備してんだよ!?」  「こんなこともあろうかと、ですわ」  「場所考えろ、こんな物使ったらどうなると思ってんだ!?」  「あの忌々しい腐れバイクごと、半径約10mほどが跡形もなく吹き飛ぶでしょうね」  「えらく具体的だなオイ。っつーか、こんな家が一杯あるところでそんな物使える訳ないだろ!」  「些細なことに拘っていては大儀は成し遂げられませんわ」  「些細か、些細なのか、これ!? ついでに大儀もクソもないし!」  「何を申されますの? この私ネリィ・フォン・クォーツを侮辱し、その誇りを地に落とした罪に相応しい報復を行う! これ以上ないぐらいに立派な大儀ではございませんか!?」  「あーもう何ていうか何ていうかだなぁっていうかもうどうにでもなれチクショウ」  ジュナスはやけっぱちになって叫んだ。  夜の街を当てもなく彷徨っていたシャロンは、ふと足を止めた。無言で周囲を見回す。誰もいない路地裏はひっそりと静まり返っていた。シャロンはそっと服の中に手を差し入れ、、首から下げていたロケットペンダントを開く。中には、一人の女性の写真が収められていた。  「……母様」  ぽつりと呟き、思い悩んだ表情で、そっとロケットを口元に持っていく。そのまま口づけしようとして、シャロンは躊躇った。まるで、恐れ多いことをしようとしているかのように。結局、シャロンはロケットペンダントを額に押し付けた。祈りを捧げるように、目を閉じる。  「母様。シャロンは少しでも母様のお役に立てるよう、異国の地で努力しております。もしも許されるのでありましたら、この矮小で哀れな存在に慈悲の微笑を与えてくださるよう……」  深い夜の静寂に、弱弱しい言葉が染み渡っていく。そのとき、シャロンはふと、訝しげに顔を上げた。ロケットを大事にしまいこみ、息を殺して耳を澄ます。聞き慣れない爆音と共に、誰かの悲鳴が聞こえる。それ程遠くはない。壁の向こうから、徐々に迫ってくる。  「上!?」  シャロンは咄嗟に、顔を上に向けた。そして、何か二つの黒い影が、家の屋根を飛び越して空を舞うのを見た。一つ目の影は反対側の家も飛び越したが、二つ目の影は空中で失速し、こちらに向かって落ちてくる。シャロンは咄嗟に飛びのいた。影はその場所に降ってくる。  「バイク……!?」  人を二人乗せたバイクだ。着地の衝撃に耐えきれず、後ろに乗っていた少年……ジュナスが、勢い余ってバイクから落ちる。尻を地面に打ち付けて悲鳴を上げる彼に気付かぬように、前の女がバイクを加速させ、曲がり角の向こうに消えていった。その女の、風になびく金色の髪を見て、シャロンは目を見開いた。  「いててて」  尻をさすりながら、ジュナスが身を起こす。バイクが走り去った方向を睨むように見ているシャロンに気付くと、慌てて走りよってきた。  「うわ、人がいたのか。大丈夫かい君、どこか怪我は……」  シャロンは無反応だった。ジュナスは怪訝そうに眉をひそめ、  「どうしたの? ねえ、君……」  ジュナスは心配そうな表情で、手を伸ばしてくる。シャロンはハッとして、その手を払いのけた。驚くジュナスに、一歩身を引きながら言う。  「……気安く触れないでくださいます?」  「あ、うん、ごめん」  混乱した表情で、ジュナスが頷く。しかし、すぐに気を取り直し、  「や、やっぱ怒ってるよね? ホントごめん、まさか屋根を飛び越えようとするだなんて思ってなくてさ……」  弁解するジュナスを、シャロンは冷徹な目で睨み、  「あら、言い訳なさるのかしら?」  「い、いや、そうじゃないんだけど! でも、運転してたの俺じゃないし……」  その言葉に、シャロンは感情を抑えた声音で、  「では、どなたが?」  「え?」  「どなたが運転を?」  「え、そりゃネリィが、って言っても分かんないよなぁ」  ネリィ、という単語以外、シャロンはほとんど聞いていなかった。顔を憎悪に歪め、ぎりっと歯を噛み締める。  「そう、やはりあの女が……こんな近くに……!」  「え? なに?」  ジュナスがきょとんとする。シャロンはジュナスをキッと睨みつけ、  「あなた」  「は、はい!?」  思わず直立不動になるジュナス。シャロンは不機嫌そうに顔をしかめながら、  「私に事情を説明いたしなさい。そうする義務があることは、お分かりですわね?」  「え?」  予想だにしない質問だったのだろう。ジュナスは虚を突かれたように、ぽかんと口を開けた。  「あなたと……その、ネリィさん、という方は、何をなさっていたのですか?」  ネリィさん、という部分に現れていた複雑な感情に、ジュナスが気付いたかどうか。  「え、ええと……」  しどろもどろになりながらも、ジュナスはこの信じられない状況を、簡単かつ正直に説明した。とは言え、ネリィに関わる内容以外、シャロンはほとんど聞いていない。ネリィという単語がジュナスの口から出る度に、彼女の表情は険しくなっていった。  「と、いうこと、なんだ、けど」  ジュナスはこわごわと話を結んだ。シャロンは黙って聞いていたが、血走った目を見開き、唇を噛み締めたその顔からは、隠しようのない怒りの念が滲み出ている。ジュナスは慌てて、  「い、いや、そりゃ信じられない話かもしれないけど、別に馬鹿にして嘘吐いてるとか、そういうのじゃなくて、俺はただ正直に……」  「……別に、信じていない訳ではありませんわ」  シャロンは、一度大きく息を吐き、目を閉じてまた開いた。そうすることにより、先ほどまでの表情は跡形もなく消え去り、後には人形のような無機質な表情が残る。  「Gジェネレーションの社員、と?」  「え? あ、ああ、一応。ここに停泊してる船の、MSパイロットで」  「ネリィさん、という方は?」  「え、ネリィ? 船の操舵担当、だけど……」  「ふん……」  シャロンは不機嫌そうに鼻を鳴らし、バイクの去っていった方を見据える。暗い瞳の奥深くで、青白い炎が揺らめいているようだった。  「情報どおり、か。偽名も使わずに堂々と……その上こんなところで騒音を撒き散らしながらバイクで走り回るなど、相変わらず貴族の慎みの欠片もない」  口の中だけで呟いていたとき、シャロンはふと気付いた。ジュナスが、不思議そうな顔でじっとシャロンの顔に見入っていることに。  「何か?」  聞く。ジュナスは「え」と少し驚いたあと、「いや」とシャロンの顔を見て一度躊躇ってから、  「気になったんだ」  「何がです?」  「何で、そんな風に寂しそうな顔をしてるのかって」  「え?」  驚き、シャロンは目を見開く。  「寂しい……? 私が!?」  「それに、」  と、ジュナスはどこか呆然と続けた。  「それに、すごく綺麗だ。何で、今まで気付かなかったんだろう……」  すっかり心を奪われたような、間の抜けた呟き。思わず吹き出しそうになるような、三文戯曲のような言葉。しかし、シャロンの方も何も言えず、毒気を抜かれた表情でジュナスを見つめ返す。  「……あ、あの!」  と、唐突に正気を取り戻したように、ジュナスは自分の服の懐やポケットをあちこち探って、一冊のメモ帳を取り出した。その1ページを破り取ると、もどかしげに何かを書き、シャロンに差し出す。  「これ、俺のアドレス!」  「は?」  反射的に受け取ってしまったシャロンが見ると、そこには確かに、メールアドレスらしい文字が羅列してある。シャロンの困惑した表情に気付いたのか、ジュナスは慌てて両手を振り、  「い、いや、違うんだって! 迷惑かけちゃったから、その賠償金とか、そういうのの相談とか、いるじゃない? いるよね?」  何故か必死に、ジュナスは弁解する。シャロンが首を傾げると、一層慌てて、  「ち、違うんだ! 誤解しないで? べ、別にナンパしようとか、そういうのじゃ。いや、それもちょっとはあるんだけど、決してそういうやらしい気持ちだけじゃなくて!」  喋れば喋るほど、ジュナスの言葉は支離滅裂になっていく。さすがにシャロンの表情が困惑から呆れに変わり始めたとき、ジュナスは耐えられなくなったように、  「じゃ、そういうことで!」  と、赤い顔で片手を挙げ、一目散に逃げ去っていった。シャロンはあたふたと走り去るその背中を見ながら、手元の紙片に目を落とし、  「……情報収集の手段には、なりまわすわね」  と、一人呟き、紙片をしまいこんだ。そして、少し迷った後、小走りにジュナスを追いかけ始めた。  「うわー、バカ、俺バカ!」  一人赤い顔で喚きながら、ジュナスは薄暗い路地裏を駆ける。  「なに言った、なに言ったんだっけ俺!? うわー、あれじゃ変態みたいじゃないか、なぁ!?」  返答はない。ジュナスはいつしか少し大きな通りに続く小道を走っていた。路地裏よりは明るいその通りへ抜け出そうかという直前、目の前をバイクが通り抜ける。人を乗せていない。幽霊バイクだった。そして、その後ろからも爆音が。  「ジュナス!?」  ジュナスの目の前で、幽霊バイクの後ろから来たもう一台のバイクが急停止する。ネリィだ。  「どこに行ってたんですの!?」  「え? どこって……」  ジュナスはちらりと路地裏を振り返り、  「……運命の出会いに失敗してたっていうか」  「はぁ?」  「いや、何でもない。それより、後ろ乗るぞ」  と、ジュナスはいそいそとネリィの後ろに乗ろうとする。  「……何かありましたの、ジュナス? お顔が赤いですわ」  「は? 何言ってんのネリィ僕訳分かんないなぁハハハハハ。それよりホラ早く追いかけようぜ幽霊バイク!」  馬鹿笑いしながら、ジュナスは急かすようにバイクの車体を叩く。ネリィは小首を傾げながらも、バイクを発車させる。  「ハッハッハー、いいぞネリィ、盗んだバイクで走りだそうぜ! それが青春ってもんだ、なぁ?」  「……落ちたときに頭でも打ちました?」  ちょっと気味悪そうなネリィの言葉など無視して、ジュナスはハイテンション全開で叫び続けた。  同コロニー内、Gジェネレーション支社内のとある部署。人気のない薄暗い部屋の中、一つだけ起動しているパソコンがあった。モニターのぼんやりとした光に、そのデスクに腰掛けた女性の顔が薄く照らし出されている。  「……で、あの小娘まだ来やがりませんのですけれど?」  苛立った声でそう言う女性の名は、フローレンス・キリシマ。ネリィの憧れの人であり、Gジェネレーション社長ブランド・フリーズの秘書でもある人物だ。  彼女は不機嫌そうな表情を隠そうともせず、モニターに映る人影を睨みつけている。並の人間ならそれだけで萎縮してしまいそうなほど迫力のある視線だったが、しかし今の会話相手はただ苦笑を返すだけである。  「まあまあキリシマさん、そんなに怒らないであげて下さいよ。ちょっと遅れてるだけですって」  エターナだった。フローレンスはデスクを殴りつけ、  「遅れすぎなんだよ……でございますわ。約束の時間からもう三時間ですことよ、三時間」  「いいじゃありませんか。お仕事の方は片付いてるんでしょう?」  「そりゃま一応、ネリィとちょっと話すぐらいの時間ぐらいなら確保できると思いますけれど」  エターナが小さな笑いをもらした。フローレンスは眉尻をつり上げ、  「……何がおかしいんだよ……でございますか?」  「いえ。ただ、ネリィさんとお話するために、随分と張り切ったんだなぁと思いまして」  にこやかにそう言うエターナに、フローレンスは顔をしかめて目をそらす。  「別に。元々大してやることがなかっただけだよ……ですわ」  「またまた。この忙しい時期、ブランド社長の秘書さんに仕事がない訳がないじゃないですか」  「……チッ、お見通しかよ」  フローレンスは少し顔を赤くして、ぽりぽりと頬を掻いた。  「まあ、久しぶりだし。いろいろと話をしたいとも思ったからよ……ですわ」  「何年ぶりぐらいになります、ネリィさんに会うの?」  「ん。年数的にはそんなでも。せいぜい二、三年そこらってところさ……ですのよ。けど、それまでは毎日一緒だったしよ……ですから」  「何やってたんです?」  「族」  短く、一言でフローレンスは答える。エターナは目を瞬いた。  「族、ですか?」  「ああ。五年前ぐらいからかな。ほら、その時期ってアタイもアンタもふらふら放浪してただろ……でございましょ?」  「ええまあ、情報を集めながら」  「そ。まだ奴が来る時期じゃなかったってのもあるし。暇だったからたまたま滞在してたコロニーの半端野郎ども集めて、遊びまわってた訳よ……なのですわ」  「何で族なんです?」  「や、その野郎どもの中に、地球のどっかの島国の、かなり昔の漫画のファンがいてさ。何だっけかな、ぶっこみのうんたらとか。で、暇だったから皆でそれの真似やろうぜってことになって。そんなこと始めていくらか経ったころに……」  「ネリィさんが?」  「そ。何か、町中で何人かの男に囲まれて怒鳴り声上げててさ。いかにもお嬢様っぽかったから、ほっとく訳にもいかんだろと思って助けたら、アタイにほれ込んじゃったみたいで」  「はぁ。それで?」  「それから二、三年ぐらい『びきびきぃっ』とか『!?』とか『タケマルぅ!?』とかやって遊んでたんだけど、んなことやってる内にあのオカマがきやがってさ。子分ともどもGジェネレーションに入らされたって……という訳ですわ」  ため息混じりに、フローレンスは話を結ぶ。エターナは呆れた調子で、  「私が深海に潜ったり木星に行ったりして情報収集してる間に、そんなことやって遊び呆けてたんですか?」  「そっちもそっちで楽しそうじゃん。情報収集はちゃんとやってたって。もっとも……」  と、フローレンスは不意に目を細めた。  「お互い、大した収穫は得られなかったみたいだけどな」  「そうですね」  エターナもまた、暗い表情で俯いた。  「月のジェフリーさんもいろいろと調べてくれているようですけど」  「ま、奴が事を起こす直前まで尻尾すら掴ませてくれないってのは、いつものパターンだけどさ」  「こちらは常に後手後手で……悔しいですね」  エターナは唇を噛む。フローレンスも少し黙っていたが、やがて話題を変えるように一息を吐き、  「で、ネリィはそっちで元気にやってるのか……のですか?」  「ええ、それはもちろん」  エターナは気を取り直すように苦笑した。それから、ちょっと首を傾げて、  「やっぱり、心配なんですか?」  「ま、ね」  フローレンスは困ったように微笑み、  「あの野郎、意地っ張りっつーか頑固っつーか、苦しくても人には素直に話さないところがあるからな。無理してなきゃいいがと思ってたんだが……ですけれど」  「大丈夫ですよ。他の船員とも仲良くやってますし」  「ん。ならいいんだけど。ま、何にしても、会うのが楽しみってやつさ」  言って、肩を竦めたフローレンスが、不意に何かに気付いたように、モニターから目を離した。左方、窓の方向である。  「? どうしました?」  「ん。いや、何かちょっと懐かしい音が聞こえたような……」  エターナに答えつつ、窓に歩み寄る。そして下を覗き込んだ途端、騒々しい排気音と共に、物凄いスピードで何かがビルのすぐ傍を通り過ぎていった。  「……」  こめかみに指を置きながら、フローレンスはモニターの前に座りなおす。そして、眉をひそめて、  「なぁ。ネリィの奴、バイクでこっちに来るって言ってたか?」  「は? 何のことです?」  エターナがきょとんとする。フローレンスはそれには答えず、右目の外端の辺りに軽く指で触れた。すると、その部位からコンピューターが動作しているような小さな電子音が鳴り始めた。しばらくして、フローレンスは何かを確認するように頷き、  「……やっぱりネリィだ。後ろに人乗っけてるが……こいつ誰?」  「ああ、ネリィさんと一緒にいるのなら、多分ジュナスさんだと思いますけど……」  エターナは少し不思議そうに、  「通り過ぎちゃったんですか?」  「ああ。ったく、何やってんだか」  うんざりした口調で呟くフローレンスの顔は、しかしどこか楽しげである。  「どうしたんです?」  「ん? いや。相変わらず愉快なことやってんなぁと思ってさ。なるほどねぇ」  先ほどからずっと、フローレンスの右目の脇の辺りから、途切れることなく小さな電子音が発せられていた。まるで、中にコンピューターでも入っているような音。  「前の奴……人が乗ってねぇな。AIでも搭載してるのか? 何にしても、そんなのと夜中にレースなんざ、ネリィも相変わらず元気そうじゃねぇか。だが」  フローレンスはニヤリと笑う。犬歯をむき出しにした、野性的で獰猛な笑み。  「そんなんでアタイとの待ち合わせに遅れるってのはよくねぇなぁ。よくねぇよなぁ。よくねぇ子にはお仕置きしなくちゃなぁ?」  楽しそうに頷きながら、フローレンスは椅子に掛けてあった黒いコートを羽織る。それからモニターに向かって片手を立て、  「悪ぃ、ちょっと出るわ」  「え、大丈夫なんですか? 休憩時間は終わってるんでしょう」  フローレンスはちらりとオフィスの入り口を見やり、  「ま、職務放棄だけど。いいって、どうせこうやって私用通信長くやってる訳だし。怒られんなら一緒だって……なのですわ」  「そういう問題じゃないと思いますけど……」  「気にすんなって。ほっときゃいいんだって……いいんですわ、あんなオカマ」  フローレンスはからからと笑う。エターナは諦めたようにため息を吐き、  「まあ、いいですけど。怒られるのは私じゃありませんし」  「そうだろ……でございましょ」  胸を張るフローレンスに、エターナは少し首を傾げて、  「ところで、さっきから何なんですか、その変な口調?」  「え?」  「お嬢様みたいなそうでもないような、何だか変に上品な」  「だって、秘書だし。アタイ」  エターナが複雑な顔で沈黙する。フローレンスは首を傾げ、  「ま、いいや。んじゃ行ってくるな」  「ええ。それにしても、ホント元気ですねぇ。お疲れじゃないです?」  エターナはまた苦笑を深める。フローレンスは肩を竦め、  「何言ってんだ、お互い疲れ知らずの体だろうが」  「厳密には違いますけど」  「細かいことは気にすんなって。じゃな」  「はい。お気をつけて」  エターナの一礼を見届けたフローレンスは、パソコンの電源を落とし、コートの裾を翻しながら颯爽とオフィスを後にした。  シャロンが去った後、相変わらず椅子に座ったまま物思いに耽っていたパティは、ふと誰かが階段を下りてくる音を聞きつけて眉をひそめた。小さく苦笑し、  「やれやれ、今日は寝付けない子が多いのかな?」  呟き、階段の方に呼びかける。  「おーい、許可なしに夜間外出すんのは禁止だよー。さっきは通しちゃったけど、今度……は……」  言葉は途中で途切れた。苦笑を形作っていた顔が、見る見る内に驚愕と緊張に染まっていく。  階段を下り、ロビーに姿を現したのは、右目に眼帯を巻いた男だった。闇を身に纏ったようなどこまでも暗い雰囲気の、引き締まった長身。身を強張らせ、息を潜めるパティの視線など気にも留めないように、男は何かを探すようにゆっくりと首を巡らせた。  「誰だ……?」  呟き、笑う。  「壊れにくそうな奴がいるな? 壊しがいのありそうな奴がいるな? どこにいる?」  ますます、笑みが深くなる。獲物を目に捉えた狩猟者のような、あるいは敵を威嚇し今まさに襲い掛からんとする野獣のような、獰猛で危険な笑み。自分に向けられたものでもないのに、パティの全身に悪寒が走り、額に冷や汗の珠が浮いた。その男、オグマ・フレイブを前に、パティは指先一つ動かすことも出来ない。  不意にオグマは笑いを収め、  「ここにはいないか」  出入り口に向かって歩き出した。それを見たパティがハッとして、  「あ、あの!」  思わず声を上げた。オグマは足を止め、ゆっくりとパティに目を向ける。睨んでいる訳でもない、ごく普通の、気だるげですらある瞳。それにも関わらず、パティは身を竦めてしまった。  「何だ」  オグマは短く聞いてくる。パティは唾を飲み込み、気を落ち着けるように胸に手を置きながら、  「……さ、作戦進行中の現在の状況において、用もないのに夜間外出するのは軽率かつ何ら利のない行動だと考えますが……」  そう言う声はとても固く、震えを隠しきれていない。オグマはそんなパティを大して興味もなさそうに眺めて、  「偵察だ」  と、一言。  「え」  驚くパティに構わず、オグマは悠然と歩いて外へ出て行ってしまった。パティはしばらく呆然と立ち尽くし、倒れるように椅子に座りこんだ。  「……怖かったぁ……」  大きく息を吐くように呟く。額に手を当てると、顔が多量の汗で濡れているのが分かった。  「シャレになんないよホント、あの人だけは……」  手の甲で汗を拭ってから、パティは不意に、ハッと入り口の方を見た。  「ヤバ、シャロンがまだ帰ってきてない。もし、無断外出してたのがばれたら、オグマ隊長に……」  パティは青くなり、少し迷ってから立ち上がると、階段を駆け上がった。二階廊下、一番手前の部屋の扉を開け、悲鳴のような声で怒鳴る。  「ユリウス、見張り代わって!」  返事を待たずに踵を返し、パティもまた慌しく廃ビルから出て行った。    どれだけ走っても、前を行く幽霊バイクとの距離は縮まらない。敵の車体を睨みながら、ネリィは眉間に皺を寄せた。  「なぁ、ネリィ」  不意に、後ろから声をかけられる。ずっとネリィにしがみついているジュナスだ。先ほどと違い、今は大分落ち着いてきた様子である。  「何かさ、あいつ、ずっとこっちと着かず離れずって感じじゃないか?」  「……そうですわね」  視線は前に向けたまま、ネリィは頷いた。  「こちらを試しているような、どこかに誘い込もうとしているような……どちらにしても不快ですわ」  「何が目的なんだろうな、あの幽霊?」  心底不思議そうに、ジュナスが言う。その言葉に、ネリィはグッと唇を噛み締め、  「幽霊じゃありませんわ」  「は?」  「あのバイクは、断じて幽霊などという非科学的な代物ではございませんの」  必要以上の力が込められたせいか、声が震えていた。ジュナスは少し沈黙したあと、  「じゃあ何なんだ?」  「AI搭載の無人バイクですわ」  「はぁ?」  ジュナスは素っ頓狂な声を上げた。  「一体どっからそんな話が?」  「そうとしか考えられませんもの。だって幽霊なんかいないんですし。いないものはいないんだから、可能性として考えるのは愚の骨頂というものですわ。となれば、残るのは……」  「あいつが人の技術の産物だって?」  ネリィは無言で頷いた。後ろからそれを見ていたのであろうジュナスが、低く唸る。  「うーん、でも、俺あいつの声聞いたと思うんだよなぁ」  「気のせいですわ」  「いやでも、結構はっきり」  「気のせいですわ」  二度断言した後、ネリィは無理矢理笑った。  「オホホホホ、嫌だわこの人ったら。NT適性があるからって、ただの空耳すら『宇宙人のテレパシーだったんだよ!』なんて仰るつもりなのかしら? それじゃ単なる電波少年ですわ! いっそ部屋に閉じこもって懸賞生活でも送られてはいかが?」  「何言ってんだかよく分かんないんだけど」  「とにかく、奴は幽霊なんかじゃなくて、現行の科学技術で充分説明がつく、単なる玩具なんですわ。お分かりかしら、ねぇ?」  ネリィは無理矢理そう締めくくった。無理矢理理屈づけて、誤魔化そうとしているのが丸分かりだった。  ネリィの腰にしがみついていたから、ジュナスにはバイクを操る彼女の体が震えているのがよく分かった。走っている内に、怒りに震えていた心が段々と落ち着いてきたのだろう。  (そりゃ怖いよなぁ、ネリィ。泣いちゃうぐらい幽霊嫌いなんだし)  ジュナスは小さく苦笑する。そして、ネリィの後頭部を見た。後頭部しか見れなかった。彼女がただひたむきに、前だけを睨んでいたから。  (怖いはずなのに、あいつを追っかけてるんだもんな)  ただ、プライドを傷つけられた仕返しをするために。失った誇りを取り戻すために。ジュナスはネリィの後頭部を見ながら、楽しげに笑った。  「そういうの好きだな、俺」  「え? 何か仰いました?」  怪訝そうな、しかし余裕のないネリィの声。  「いや。ちょっと、謝っておこうと思ってさ」  「え? 何がです?」  「ネリィの言うとおりだったってことさ。あれ」  と、ジュナスはネリィの後ろから、前方を走る幽霊バイクを指差した。  「幽霊じゃないと思う」  「は?」  ネリィは完全に虚を突かれたらしく、間の抜けた声だけが返ってきた。それでも前だけを見ているネリィに、ジュナスは満足気に頷く。  「いやー、悪い悪い。直前に怪談なんか聞いてたせいかなぁ。何かそう思い込んじゃったみたいで」  「でも、声が聞こえたって」  「ネリィも言ってたじゃん。空耳だって」  「でもジュナス、あなたはNTでしょう?」  「うん。そうらしいね。でもさ、今は何も聞こえないんだぜ?」  嘘ではなかった。耳を澄ましてみても、幽霊バイクの声は聞こえてこない。  「だからさ、ネリィ。あいつ幽霊なんかじゃないよ。ネリィの言うとおり、きっとAIでも載せてるんだぜ、きっと」  「でも……」  「NTの俺が言うんだ、間違いない!」  ジュナスは力強く断言した。ネリィはしばらく無言で運転していたが、  「ジュナス」  「うん?」  「本当に、あれは幽霊じゃありませんのね?」  「もちろん。信用してほしいな」  「では、私が恐れることなど何もありませんのね?」  念を押すように、ネリィは聞いてくる。それでも、ただ真っ直ぐに前だけを睨みながら。ジュナスも、ネリィには見えないと知りつつ大きく頷いた。  「当たり前だろ? あんな奴、グランシャリオが誇る無敵の操舵手ネリィ・オルソン様の実力にかかれば、十秒かからずにスクラップさ!」  「……そう、ですわね」  ハンドルを握るネリィの手に、ぎゅっと力が篭ったのが、ジュナスには分かった。畳み掛けるように、  「それにさ」  「え?」  「よく考えてみろよ、ネリィ。あいつが幽霊じゃなくてAIだってことは、あいつを動かしてる奴がどっかにいるんだぜ?」  「……そうなりますわね」  「ってことは、俺達がみっともなく逃げ回ってるの、モニターしてたってことだろ?」  「……そう、なりますわね」  「下手したら映像保存してばら撒いてるかもしれないぞ? 『いやー、今日引っかかった奴等は笑っちゃうぐらいびびってたなぁ。特にこの生意気そうな金髪女がぴーぴー泣いてるのが最高だなぁ』なんて言いながら」  「……」  ネリィは答えない。しかし、彼女の体の震えの質が変わったのに、ジュナスは気がついた。  (怒ってる怒ってる)  くわばらくわばら、と内心で呟きながら、ジュナスはさらに煽り立てるように言った。  「なぁネリィ、そんなの許せるか? 許せないだろ? 許せる訳ないよな、誇り高きネリィ・オルソン様がさ?」  「……」  「許せなかったらどうする? ネリィに恥をかかせたあいつをどうしてやる? ネリィ・オルソン様のプライドを傷つけた宇宙一の大馬鹿野郎の末路は一体どうなるんだ? 是非とも俺に教えてくれ」  ネリィは答えなかった。ただただ無言でハンドルを握っている。そして、夜も明かりの消えない繁華街が目前に迫ってきたころ、一言言った。  「ブチ殺す」  静かな声だった。それだけに、空気を凍らせるほどの怒気をひしひしと感じるような声だった。ジュナスは一瞬竦みあがり、生唾を飲み込みながら、  「……そ、そうか。どうブチ殺すんだ? 調理方法はいかが?」  「壁に激突させて機能停止させて鉄パイプで原型とどめないほどぐしゃぐしゃに殴ったあと燃料タンクに直接火ぃつけて派手に炎上させてそれから残骸を炉で融かして便器として再利用する」  「……そ、そうですか。なんか嫌に具体的だけど」  「それから」  「はい!?」  何故かジュナスは飛び上がりそうになった。気にする様子もなく、ネリィはゆっくりと言う。  「あいつを動かしてる奴は全殺し」  冗談に聞こえなかった。ジュナスは数瞬固まり、  「……俺はひょっとして、取り返しのつかないことをしてしまったんじゃないだろうか?」  「何ですって?」  「いやいや、なんでもないです。大変素晴らしい調理方法で、お姫様」  「オホホホホ、そうでしょうとも。これでも料理の腕はチーム1、2を争うほどでしたわ」  「……その料理って、材料人間じゃないよね?」  「ん?」  「いやいやいやいや、何でもございませんともお姫様。今夜のお夜食に何だか分からない肉の丸焼きが出てきても涙流して食べさせていただきますとも」  「よく分かりませんけれど……ああ、ところでジュナス」  「はい?」  「これからちょっと運転が荒っぽくなりますから、先ほどのように振り落とされぬよう、しっかり捕まっていなさいな」  「……了解」  ジュナスはネリィの腰に回した手に力を込める。  「おお、柔らか……」  しかし、感想を言い切る前にバイクは急加速した。一足先を走る幽霊バイクを追いかけ、ジュナスの悲鳴を残しながら繁華街の光の中に突っ込んでいった。  ――まだ、ついてきてる。  後ろから聞こえてくる騒がしい声に、彼は内心で笑いを零した。  ――今夜もまたダメかと思っていたが、あいつらならひょっとして。  全身が喜びで打ち震える。歓喜の咆哮を上げながら、彼は更に加速した。  人工的な光が煌々と輝く繁華街の只中を、二台のバイクが爆走する。  勤務時間が終われば人気もまばらとなるオフィス街と違い、この繁華街は夜半をとっくに過ぎた現在の時刻であっても人通りが多い。多くは仕事帰りに一杯引っ掛けている人間たちだ。そんな訳で、二台の行く手は障害物で一杯だった。  しかし幽霊バイクはさほど減速することもなく、軽やかに車の群をすり抜けていく。そこかしこからクラクションが鳴り響いたが、お構いないである。  ネリィは短く舌打ちを漏らすと、追走を開始した。こちらも減速なしに、強引に車の脇を通り抜ける。ジュナスは悲鳴を上げた。  「ネリィ、もうちょっとスピード落としてくれよ!」  「それでは追いつけませんわ!」  怒鳴るような即答が返ってくる。しかし、幽霊バイクが他車の存在など全く考えずに走っているせいか、前方の道路は危険防止のために一時停止した車で埋まっており、とてもすり抜ける隙間などありそうにない。  ネリィは歯噛みしながら、素早く周囲に視線を走らせる。そして、躊躇いなく歩道に向けてバイクを走らせた。  「っておい!?」  「こちらの方が障害物が少ないのですわ!」  「そういう問題じゃ……!」  ジュナスの抗議など無視して、二人を乗せたバイクは歩道に乗り上げ、驚き立ちすくむ人の間を縫って走り出した。そこかしこで悲鳴が上がり、進路上の人々が慌てて飛びのく。弾丸のように突っ込んでくるバイクに、歩道は一気に恐慌状態に陥った。とはいえ、ネリィの腕も大したもので、右往左往する人々を紙一重でかわしていく。  「すげぇ……けどネリィ、いくら何でも危なすぎるって!」  ジュナスの嘆きを聞いてもいないかのように前方を見据えていたネリィが、不意に唇を吊り上げた。  「いた!」  ようやく、車道を走っていた幽霊バイクに追いついたらしい。幽霊バイクもこちらに気付いたのか、さらに加速した。  「逃がすか!」  ネリィもためらわずにスピードを上げる。周囲から上がる悲鳴が渦を巻くようだったが、ネリィは巧みな運転で群集の間をすり抜けていく。そのとき、不意に前方を走っていた幽霊バイクも、歩道に乗り上げてきた。  「なに?」  ネリィは眉をひそめた。幽霊バイクはテールランプの軌跡を見せつけながら、交差点を左折した。その先から、あの擬似エンジン音が高々と響き渡る。  「……ふーん。この『峠の轢き逃げ女王』ネリィ・オルソン様を煽っている、という訳ですのね?」  ネリィは呟き、唇を吊り上げた。研ぎ澄まされた刃のような、鋭い微笑み。  「上等! その喧嘩、買った!」  応じるような擬似エンジン音をまき散らしながら、二人を乗せたバイクは更なる加速を開始した。  人の少ない夜の街を、右へ左へ行ったり来たり。  どれ程時間が経とうとも、二台のレースは終わる気配を見せなかった。  時には照明の落ちた工場の敷地内を突っ切り、チンピラのたむろする地下歩道を爆走し、公園の滑り台を逆走して夜の闇にその身を躍らせ、長い階段の手すりを神業の如きバランスで滑り降りる。  二台の走りは、もはや芸術の域にまで高められていた。やはり幽霊バイクは人間離れしているが、それについていけるネリィもまた人間とは思えない技量の持ち主である。  「……って言うか、何で振り落とされてないんだ、俺……」  ネリィの後ろに跨ったジュナスが、げっそりした顔で呟く。勝負が白熱しすぎているせいか、ネリィはそれに一言の返事も寄越さない。やはり、ただ前だけを、自分のレース相手だけを見つめ続けている。  前を行く幽霊バイクの車体は、先ほどよりは大きくなっているように見える。ネリィはゆっくりとではあるが相手との距離を詰めてきているのである。  しかし、  「……そういや、いつ終わるんだろ、これ」  当初幽霊バイクを壊すと意気込んでいたネリィだが、今となっては純粋にレースを楽しんでいるようだ。相手の破壊を目的として走っているような荒々しい感じが、完全に消えうせているのだ。  とすれば、この追いかけっこの終着地は一体どこなのか。  ジュナスが首を傾げた瞬間、その疑問に応えるように、幽霊バイクの車体に変化が起きた。  派手なカラーリングを施されたボロボロのフレームから、ゆらりと蒼い光が立ちのぼる。  思わず目を見開いたジュナスの目の前で、蒼い光は幽霊バイクを取り巻くように広がり始めた。  (……違う)  ジュナスは小さく首を振った。蒼い光が幽霊バイクを包んでいるのではない。幽霊バイクが蒼い光を纏っているのだ。  そう自覚した途端に、ジュナスの視界が大きく揺れ動いた。  その町で、彼は最速だった。  彼の主人はまだ若い男で、ただ純粋に走ることを愛し、仲間を大事にする気のいい若者だった。  若者が彼に跨れば、彼らに追いつける者は誰一人としていなかった。  ありとあらゆる束縛から逃れ、彼らは毎日、自由に走り回った。  景気づけに鳴らす爆音、見守る仲間たちの声援、ただひたすら真っ直ぐに伸びる道、必死に自分を追いかけるノロマな競争相手たち。  全てが光り輝いていた日々。  しかし終わりは唐突に訪れた。  ――じゃあ、行ってくるよ、母さん。  ――どうしても行くの?  ――ダチが軍に志願したんだ。ほっとけないよ。  ――戦場には出ないんだろ?  ――分かんないな。キンセンカってコロニーの警備隊に回されるって話だけど。  ――無事で帰って来るんだよ。  ――もちろん。まだ走り足りないんだ。あいつのことも時々は見てやってくれな?  ――恋人みたいに言うんだね。  ――恋人なんかよりよっぽど大事さ。じゃ、行ってきます。  ――行ってらっしゃい。  そして、「ただいま」はなかった。  ――元気出してください、奥さん。  ――ごめんなさいね。でも、私だけではありませんし。  ――コロニーに核ミサイルを撃ち込むだなんて。  ――キンセンカは全壊状態。周囲はデブリだらけで近寄れないと。  ――では、棺は?  ――空ですわ。  ――何か、お手伝いできることは?  ――遺品の処分を。  ――処分、ですか。  ――あの子の持ち物を見ているの、耐えられなくて。  彼は待ち続けた。  ゴミ山に埋もれながら、若者を待ち続けた。  待たせたな。さぁ、また走ろうぜ。  若者が、笑いながら現れるのを、ひたすらに待ち続けた。  そうして何年もの月日が流れたとき、彼はようやく思い知った。  若者はもう来ないのだと。もう、自分が人を乗せて走ることはないのだと。  しかし、朽ちる前に、どうしてもあと一度だけ走りたかった。  あの頃のように。  誰も、彼に追いつくことはできなかった、あの頃のように。  そして今、彼は走っていた。  気付けば全てが元通りだった。  ネリィは走っている。ジュナスを後ろに乗せて、幽霊バイクの後ろを走っている。  彼には追いつけない。  誰も、追いついたことがない。  彼は最速だから。  この町で、一番速い生き物だから。  「そっか」  ふと、ジュナスは呟いた。  「走りたかっただけなんだな、お前」  答えはない。だが、幽霊バイクは、どこか楽しげに走り続けている。闇を裂くような蒼い光を、その身に纏いながら。  命の色だ、とジュナスは思った。  蒼は生命の色だ。  踊るように、跳ね回るように、蒼く光輝きながら。  今、彼は生きているのだった。  「でもな」  ジュナスは小さく呼びかける。  「いつまでも走り続ける訳にはいかないんだ、俺たちは」  その声を、幽霊バイクは聞いていたのだろうか。  「俺達は、走るだけの生き物じゃないんだ、お前と違って。だから、そろそろ終わらせなくちゃいけないんだよ」  応えるように、蒼い光が輝きを増した。ジュナスはふっと笑った。  「ジュナス、さっきから何をぶつぶつ仰っているんですの?」  速度を緩めず走りながら、ネリィが不思議そうに問いかけてくる。幽霊バイクが放つ光は、彼女には見えていないらしい。  「いや」  ジュナスが首を振ったとき、前を行く幽霊バイクが左に曲がり、路地裏に入った。ネリィもそれを追う。  「ここは……」  見覚えのある道だった。最初出会ったとき、逃げ惑う二人を幽霊バイクが追い詰めた道である。  「ふふん、上等じゃありませんの」  ネリィは不敵に呟いた。  路地裏は人が四人並べるかどうかというぐらいに狭く、その上複雑に曲がりくねっていた。  しかし彼等は壁に激突することもなく、かと言って必要以上に減速することもなく、吸い寄せられるようにある方向に向かって走っていく。  そして、最後の角を曲がったとき、見えてきた。  比較的長い直線の向こうに、聳え立つ壁。ネリィが欠陥工事だと騒ぎ立てた、高い壁である。無論、通れる隙間もなければジャンプ台になるようなものもない。このまま走り続ければ、間違いなく激突してしまう。  だが、前を行く幽霊バイクも、それを追うネリィも、その速度を緩めようとはしない。  ジュナスは、ほとんど蒼い光そのものと化した幽霊バイクが、むしろ加速して壁に向かっていくのを見た。  ――ここは特別だ。  ――何で?  ――この町でバイクに乗る奴は、白黒つけるときは必ずここに来る。  ――ああ、だからか。  ――そう。だからだ。  「この私にチキンレースを仕掛けようと仰るのね!? その意気やよし! ライルさん特製のターボエンジンでお相手いたしましょう!」  ネリィも吼えるように叫び、更に機体を加速させる。  両方、止まることは考えていないようだった。見る間に壁が近付いてくる。  二台の距離は徐々に縮まりつつあった。ジュナスは、一瞬が永遠に引き伸ばされたかのような意識の中で、それを見ていた。  蒼い光が、一直線に壁に向かっていく。そこがゴールラインであるかのように、少しの迷いもなく。距離から計算すれば、ちょうど壁に激突する瞬間、二台のバイクは並ぶはずだった。  一瞬、ネリィを止めた方がいいのではないかという考えが脳裏を掠めた。しかしジュナスは首を振る。前を行く蒼い光と、彼女の背中を見て。  そして、壁が目の前に迫ったその瞬間。  突然、幽霊バイクがこちらに首を向けた。  蒼い光が視界を埋め尽くし、ジュナスは奇妙な浮遊感に包まれた。  気がつけば、ジュナスは地面に座り込んでいた。  横を向くと、同じ姿勢のネリィが呆然としている。  その視線の先には、あの壁があった。その根元に、二台のバイクが折り重なっていた。  ネリィとジュナスが乗っていた上の一台は完全に無傷だったが、下敷きになっている方は車体がひしゃげて、完全に壊れてしまっていた。  「……何だったんですの?」  「ん?」  隣に顔を向ける。ネリィは呆然と、二台のバイクを見つめ続けていた。  「壁にぶつかると思ったとき、蒼い光が広がって……私たち、何故無傷でここにいるのかしら?」  ジュナスは答えなかった。ただ、下敷きになった幽霊バイクに、労わるような視線を向けた。  「かばってくれたんだな」  ふっ、と笑う。  「ありがとう」  と、唐突に、周囲が騒がしいことに気付く。見回すと、狭い路地裏に人だかりが出来ていた。  「おぉ!? な、何だ何だ!?」  「そりゃこっちの台詞だよ」  群集の間から、一人の男が出てきた。制服を着た警官だ。面倒くさそうな顔をしている。  「ったくよぉ。今日も何事もなく終わりかと思ったら……何やってんのあんたら」  「え?」  「あんな旧式の乗り物で街中爆走して、その挙句に事故って壁に激突なんて。ちょっとは人の迷惑も考えたらどうだ、あぁ?」  「いやぁ」  ジュナスはどう説明したものかと頭をかく。ネリィはまだ呆然としているようだった。  「ちょっとしたデモンストレーションだよ……ですわ」  「は?」  と、唐突に、涼やかな声が上がった。人垣が二つに割れ、その向こうから一人の女性が歩いてくる。それを見て、ジュナスは「お」と声をもらし、ネリィは「う」と呻いた。  「我がGジェネレーションの新製品をお前ら……皆様に知っていただくための、デモンストレーション」  その黒いコートを羽織った長身の女性は、困惑する警官の眼前で優雅に立ち止まり、  「本来なら事前に通達しておくべきでしたけど、どうやら手違いがあったみたいだな……ですわ」  「デモンストレーションって……この騒ぎが?」  警官は、疑わしそうに女性を見る。女性は警官の手をそっと握り、  「ええ。ですから、事件だとか何だとか、そういったことは一切ねぇんだよ……ないのでございますわ。お分かり?」  と、首を傾げて手を離す。警官はチラリと自分の手の平を見下ろすと、  「……へ。まあいいか」  呟き、群集に向かって叫んだ。  「聞いてただろお前ら! そういう訳だから、今回のことはこれで終わり! さ、散った散った!」  「うるせー!」「あっさり買収されてんじゃねぇぞこのクソポリ!」群集の反応はほとんど怒号だった。彼らと警官が罵りあいを続けるのを横目に、女性はつかつかとジュナスとネリィに歩み寄り、  「……で、実際何やってたんですの、お前ら……あなた方」  呆れた様子で聞いてきた。ジュナスは苦笑し、  「何と言ったらいいんだか。ま、とりあえず……」  立ち上がり、頭を下げる。  「ども、お久しぶりです、キリシマさん」  「ん。元気そうだな……ですわね、ジュナス」  「まあ、お蔭様で」  「で……」  と、フローレンスはちらりと、ネリィを見た。ネリィは座り込んだ姿勢のまま、びくりと身を震わせる。  「久しぶりといえばこっちも久しぶりだねぇ、ん? ネリィちゃん?」  「は、はい……」  「アタイとの約束すっぽかして、その上トップクまで持ち出して、アンタは一体何をやってるのかなぁ?」  少し首を傾げながら、ネリィを見下ろす。ネリィの身体が小刻みに震えた。声を出すどころか、顔を上げてフローレンスと視線を合わせることすらしない。  「……何とか言えやコラ」  ドスの利いた声。硬直してしまったネリィを見かねてか、ジュナスが青い顔で、  「い、いや、キリシマさん、これには深い訳が」  「深い訳?」  「そ、そう! た、確かに約束の時間に遅れたのは悪いことだけど、そうしなきゃいけない特別な理由があって」  あたふたと説明するジュナスをじっと横目で見てから、フローレンスはふっと微笑んだ。  「なるほど、特別な理由がね」  「そ、そう!」  ジュナスの顔が明るくなる。しかし、フローレンスは微笑んだまま、  「ふーん、特別な理由ねぇ」  と、ネリィの前にしゃがみこみ、  「なるほどねぇ」  呟きつつ、ネリィの下顎に人差し指をかけ、彼女の顔を持ち上げて強引に自分に向けさせた。息を呑むネリィに向かって優しく目を細め、  「そうなの。特別な理由があったの、ネリィちゃん?」  と、幼い子供に対するような口調で聞く。  「それってつまりさぁ。このアタイことフローレンス・キリシマと久方振りに再会するっていうのよりも、もっと大事な用事があったってことだよねぇ?」  「う……」  恐怖に見開かれたネリィの瞳を覗き込むように、フローレンスはずいっと顔を近づけた。  「何だろうなぁそれ。すっげー気になるなぁアタイ。ネリィちゃんにとっては命の恩人とも言えるこのアタイよりも大事な大事な用事って、一体何なのかなぁ?」  異様なほどに優しい声。それを吐き出す唇は微笑の形を描いているが、しかし、目は少しも笑っていない。  「気になるなぁ。教えてほしいなぁ。だけどその理由ってのがあんまりにもくだらなかったりしたらショックだなぁ。ネリィちゃんにとって、アタイってそんなのよりくだらない存在ってことになるもんねぇ。そんなことはないと思うけど、もしそうだったら許せないよねぇムカツクよねぇ。あんまりムカツきすぎて思わずこの顎砕いちゃっても仕方ないよねぇ?」  と、可愛らしく首を傾げながら、ネリィの下顎にかけた指先に力をこめる。ネリィの顔から見る見る内に血の気が引いていく。あまりの迫力に気圧されたのか、横で見ているジュナスも身動き一つ取れないでいる。  そんな緊迫した雰囲気が数瞬続いたとき、フローレンスが、唐突に「ぷっ」と吹き出した。何かをこらえきれなくなったように、腹を抱えて笑い出す。  「へ?」  あまりの急展開に、ネリィが目を白黒させる。それを横目に、フローレンスは身をよじってひたすら笑っている。先ほどまでの妙な迫力のある笑みではなく、ただ心底おかしそうな馬鹿笑いである。  「フ、フローレンス姉様?」  へたりこんだままのネリィが、恐る恐る声をかける。フローレンスは笑いすぎて目じりに浮かんだ涙を拭いながら、  「あー、悪ぃ悪ぃ。久々にネリィのびびった顔見たらおかしくなっちゃってさ」  ぴらぴらと手を振るフローレンス。ネリィと同じく唖然としていたジュナスが、  「え、じゃあ」  「ああ、話はもうエターナから聞いてるよ。それにしたって遅れすぎだとは思うけどよ」  「ご、ごめんなさい……って、それでは、遅れた理由も知っていらっしゃるのですか?」  「あ? 遅れた理由って、派手にすっ転んで気絶したジュナスをネリィが介抱してたってやつ?」  「え?」  「エターナはそう言ってたけど……違うのかよ?」  フローレンスは不思議そうに聞いてくる。ネリィが答えられずにいると、突然ジュナスが叫びだした。  「そ、そうなんですよ! そりゃもう派手にすっ転んじゃって、たまたま通りかかったネリィが見つけてくれなきゃどうなってたことか! なぁネリィ?」  「え?」  困惑した様子のネリィに、ジュナスは「話を合わせろ」とでも言うようにウインクを送ってきた。ネリィは数回瞬きしたあと、  「そ、そうなんですのよ! もうホント、私の目の前でジュナスが空中大回転を決めたときはどうしようかと」  「はぁ。どんな状況なんだ、そりゃ」  必死に取り繕う二人に、フローレンスはいささか呆れ気味である。が、  「でも、それだけじゃねぇよな?」  「は?」  「あれだよ、あれ」  と、フローレンスが顎で示したのは、折り重なっている二台のバイク。  「その格好といい……どっかの奴とレースしてたんだろ?」  特攻服姿のネリィを眺めながら、フローレンスが念を押すように聞いてくる。  「んなことやってなきゃ、ここまで遅れるこたなかった……違うか?」  「……はい」  ネリィは素直に頷いた。フローレンスは少し黙っていたが、  「で?」  「え?」  「結果は? まさか、『離死手亜』の看板背負って負けたってんじゃねぇだろうな?」  誤魔化しを許さないような、鋭い眼差しが飛んでくる。  ネリィも背筋を伸ばして胸を張り、その視線を真っ向から受け止めた。そして、朗々と声を張り上げ、言った。  「もちろんですわ総長。このネリィ・オルソン、他人の単車のケツを追うような真似はいたしておりません」  「チームの名を汚すようなことはしてねぇだろうな?」  「はい。最速の走り屋『離死手亜』の名に恥じぬよう、正々堂々と戦い抜き、誇り高き勝利をこの手で勝ち取りましたわ」  「その言葉に偽りはないな?」  「『離死手亜』の名に誓って」  芝居がかったやり取りと共に、二つの強い視線がぶつかり合う。フローレンスは視線を外さぬまま、ふっと満足げに微笑んだ。  「なら良し。アタイとの約束を破ったことも不問にしておいてやるよ」  「ありがとうございます!」  ネリィが勢いよく頭を下げる。フローレンスも笑顔で頷きながら、  「しっかし、あんたも相変わらずだね、ネリィ」  「いえ、姉様もお変わりなく」  「ま、お互い様ってところかね。ところで」  フローレンスは不意にジュナスの方を向き、  「何だってジュナスがついてきてるんだい?」  「え? あ、ええと」  儀式のような二人のやり取りをほとんど蚊帳の外で眺めていたジュナスは、あたふたしながら、  「ほら、俺のせいで遅れちゃった訳だから、やっぱ謝った方がいいかなって」  「ああ、そういうこと」  と、フローレンスはどこか意地悪そうににやにや笑いながらネリィを見て、  「アタイはまた、夜道を一人で歩くのが怖いからついてきてもらったのかと思ったよ」  「オホホホホホ、な、何を仰いますのフローレンス姉様。この私に限ってそんなことは」  「へぇ。じゃ、お化け嫌いは直ったんだ?」  「も、もちろんですわ」  「ふーん。ところでネリィ、背中に知らないじいさんが乗っかってるぞ」  ネリィが悲鳴を上げてジュナスに飛びついた。フローレンスはそれを見て一瞬意外そうな顔をしたあと、からからと笑いながら、  「直ってねぇじゃん」  「ひ、ひどいですわ姉様」  「あんたも嘘吐いたんだからお互い様だろ。にしても、随分仲がいいんだねお二人さん?」  先ほどとはまた違った含みを持った、にやにや笑い。ネリィは「え?」と首を横に向け、自分がジュナスに抱きついているのを認めると、再び悲鳴を上げて彼の頬を殴りつけた。「ぶっ」と息を漏らしながら、ジュナスが地面に叩きつけられる。照れ隠しにしてはかなり豪快である。  「嫌ですわもう」  「……それはこっちの台詞だよ……」  「あ、ごめんなさいねジュナス。痛くありませんでした?」  「いちいち聞かなくても分かるだろ……」  顔を赤くして呟くネリィと、違う意味で赤くなった頬をさすりながら身を起こすジュナス。フローレンスはまた吹き出した。  「ははっ、何だか面白いねあんたら」  「こっちは大変ですけど……って、あれ?」  苦笑しかけたジュナスが、ふと眉をひそめる。  「どした?」  「いや……あれ?」  ジュナスは困惑した様子でまじまじとフローレンスを見て、  「キリシマさん……ですよね?」  「失礼ですわよジュナス」  「いや、何か、前会ったときと随分印象が違うなぁと思って。前はもっとこう、落ち着いた感じっていうか」  「あぁーっ!」  ジュナスの言葉を遮るように叫んで、フローレンスが口を押さえた。  「やっべ、ネリィの前だからってつい素になっちまってたよ。油断も隙もあったもんじゃねぇなこりゃ」  「素、ですの?」  「ああ。ほら、アタイって一応社長秘書だからさ。いっつもはもっとこう、お嬢様っぽい感じに喋ってるんだよ……いるのですわ」  一つ咳払いをして、フローレンスが居住まいを正す。  「ホントにもうお恥ずかしい。ジュナスさん、先ほどまでのは本物の私じゃありませんからどうぞ忘れろやコラ……いやいや、忘れてくださいなオホホホホホ……」  「はぁ……」  今ひとつ釈然としない様子で、ジュナスが頷く。フローレンスはうーん、と唸りながら、  「やっぱ難しいもんだなぁ。ネリィの真似してんだけど」  「ああ、だからああなるんだ」  「ちょっと、どういう意味ですの?」  ネリィが軽くジュナスを睨む。フローレンスはそんな二人をどこか微笑ましげに見ながら、  「さって、それじゃ、帰ろうかね」  「え、もう?」  「ああ。ネリィの元気そうな顔見て安心したし、実を言うととっくに休憩時間終わってるんだよな」  「そうでしたの……ごめんなさいフローレンス姉様」  肩を落とすネリィに、フローレンスは軽く苦笑する。  「そんな顔すんなって、またその内時間もできるさ」  「それは、そうですけれど」  「それにさ」  と、フローレンスは自分の右目の横の辺りに、指で軽く触れ、  「ちょーっとヤボ用が出来たみたいでさ。行かなきゃならねぇんだな」  「ヤボ用、ですか?」  「そ。ま、そんな訳で……あ、そうだジュナス」  と、踵を返しかけたフローレンスがジュナスに歩み寄り、そっと耳打ちした。  「ネリィのこと、頼むな」  「え?」  「あいつ、あんたに随分気ぃ許してるみたいだから」  「俺に? 何で?」  「あいつが他人に抱きつくのなんて、見たことなかったからさ」  「はぁ」  曖昧に頷きながら、ジュナスは少し離れたところにいるネリィを見る。ネリィは、低い声で囁きあう二人を不思議そうに見ていた。  「見てて危なっかしいんだよ、ネリィって娘はさ」  フローレンスは困ったように笑う。  「何かってーと無茶するし、プライド優先で後先考えねぇし、それでいて意地っ張りで人に助け求めたりもしねぇし」  「うん。それは、そうだと思うけど」  「だけど、あんたにはちょっと素直みたいだからね。ま、二人の間に何があったんだか、アタイは知らねぇけど」  「いや、別に何も特別なことは」  「そう? ま、いいや。とにかく、頼むな」  フローレンスは返事も聞かずにジュナスの肩を軽く叩くと、「んじゃな」と二人に手を振り、黒いコートの裾を翻して大通りの方に向かって駆けていった。ネリィとジュナスは、フローレンスの靴音を聞きながらしばらく黙っていたが、  「ねえジュナス?」  「ん?」  「フローレンス姉様、あなたに何て?」  「え? あー……」  ジュナスはぽりぽりと頬をかきながら、ネリィの顔を盗み見る。夜中にバイクで走り回って少し薄汚れた、プライドの高そうな、お転婆なお姫様の顔。  (……確かに、放っといたら何するか分かんないってのは、あるかもなぁ)  ジュナスは小さくため息を吐くと、ネリィに軽く笑いかけた。  「別に、大したことじゃないよ」  「……本当ですの?」  「そうだって」  疑わしそうなネリィの瞳から、ジュナスは目をそらした。そして、彼女の長い金髪を視界にいれ、ふと  「……そういや、あの子はどうしたかな」  と、遠くの方を見て呟いた。  怪物から逃げようとするかのように、シャロンは走っていた。  夜でも目につく絹のように柔らかい長い金髪を振り乱し、精巧に作られた人形のように美しい顔立ちを紅潮させながら。  その視線は、ひたすら前だけを見ていた。ただの一度でも振り向いたら、魔手に捕まってしまう。そんな走り方だった。  潜伏先に程近い裏路地に入り、シャロンはようやく立ち止まる。肩で荒く呼吸しながら、廃屋の壁にもたれかかる。  「……ネリィ姉様……!」  激しい呼吸の隙間から、呪詛のような、あるいは悲鳴のような声が零れ落ちる。シャロンは顔を歪め、胸元のロケットペンダントを服の上から強く握り締めた。一つ呼吸を落ち着けて、さらに服の中に手を差し入れる。取り出したのは、夜の闇よりも禍々しい、黒い光を放つ拳銃。  「……何故撃てなかった? いや、何故撃たなかった? いくら憎んでも憎み足りない、あの女を」  シャロンは瞳を閉じて、姉の姿を思い浮かべる。  長い金髪。奴の貴族らしいところはこれだけだ。好戦的な瞳に野蛮な挙動、他には貴族らしいところなど一つもない。  (……そうだ、ネリィ・フォン・クォーツはそんな女だ。それなのに、奴は母様と……!)  頭の奥が熱くなる。水に墨を流し込んだように、心にドス黒いものが広がっていくのが分かる。その感情の任せるまま、シャロンは想像上のネリィを撃とうとした。  しかし、出来なかった。その途端に、頭の中に異物が紛れ込んできたから。  それは、歌だった。誰かが唄う、優しい響きの子守唄。  「……ッ! 止めろ、そんな物は関係ない!」  小さく叫びながら、シャロンは目を開く。頭の中で流れ続ける歌を振り払うために、激しく頭を振る。  「関係ない、奴は憎い女。殺したって飽き足らない女。母様の敵。それだけで、私には充分なはず……」  シャロンは額に脂汗を浮かべ、眉間に皺を寄せながらじっとその銃身に見入った。  「……それで、ネリィを撃つおつもりでしたの?」  涼やかな声。シャロンはほとんど反射的な動きで身を起こし、声の方に銃口を向ける。  自分が歩いてきた道、シャロンから見て数メートル先に、真っ黒な女が立っていた。長身、黒髪、黒コート。闇を跳ね返すような漆黒の痩躯が、壊れかけた街灯の頼りなげな光に照らされて、薄ぼんやりと暗闇の中に浮かんでいる。一瞬前まで気配などしなかったのに、視界にいれてみれば異様なほどの存在感を放つ。それは、そんな女だった。  「……どなた?」  内心の驚きを理性で無理矢理押し隠し、シャロンは努めて冷静な声で訊ねる。女はにぃっと唇を吊り上げた。  「見ていたんですのよ。あなた、先ほどの人込みに紛れて、じっとネリィを見ていらしたでしょう? 私が出て行かなければ、危うく発砲するところだった。違います?」  シャロンの質問には答えず、女はさらに言葉を続ける。  「いけませんわね、あんなに憎悪たっぷりの視線で観察対象を見るだなんて。あなた、周囲の人たちから随分浮いていましてよ? もっとも、私以外の人たちは気付かなかったみたいですけれど」  おかしそうに笑う。シャロンはそれでも冷静に、銃口を女から外さない。いつでも撃てるように引き金に指をかけたまま、言う。  「退きなさい。今ならまだ撃たずに済ませてさしあげますわ」  しかし、その退去勧告にも、女は平然としたものだった。まるで銃口が見えていないように……いや、銃に何の脅威も感じていないかのように、  「自分の舎弟をあんな風に見ている人がいたんですもの、ついつい気になってあなたを追ってきてしまいましたけど……正解だったみたいですわね。あなた、ちょっと有名でしてよ?」  と、おかしそうにくすくすと笑い、  「ねぇ、『捨てられ人形』シャロン・キャンベルさん?」  その言葉に、シャロンの目が大きく見開かれた。全身が大きく震え、ただ激情に任せるままに、  「黙れ!」  シャロンは女のその一言だけで激昂し、躊躇いなく引き金を引いていた。静まり返った夜の空に、乾いた銃声が鳴り響く。  そして、気がついたときには、シャロンは地べたに顔を押し付けられていた。  (……今)  何が起きたのか。  「いけませんわねぇ。あんなことで冷静さを失うだなんて」  上から声が降ってくる。シャロンは銃を持っていた右手を捻り上げられ、うつ伏せに地面に押し付けられていたのだ。もがいても、女の押さえつけ方は完璧で、その拘束から抜け出すことができない。シャロンは何とか顔を動かし、自分の背に乗っている女をにらみつけた。女は平然とその視線を受け止め、笑った。  「あらあら、元気なお人形さんだわ。私って力加減がうまくないってよく言われるんですけど、これならちょっと乱暴に遊んでも平気ですわね」  楽しそうに呟きながら、シャロンの右手を捻り上げた腕に少し力を込める。シャロンの顔に一瞬、苦痛の色がよぎった。  「あらごめんなさい、お人形遊びなんて生まれて初めてで、どうしたらいいのかよく分かりませんのよ。ちょっと痛いかもしれませんけど、我慢してくださいね、『捨てられ人形』さん」  怒りに奥歯を噛み締めるシャロンに、女は……フローレンス・キリシマは、心底楽しそうに笑いかける。  「さて……それでは、愉快で楽しい尋問タイムを始めましょうか」  シャロンの背に膝を乗せたまま、フローレンスは問う。  「あなただけではありませんわね?」  念を押すような言葉。  「このコロニーに、木星の部隊がいくつか出入りしている。そうですわね?」  答えはない。フローレンスは構わずに、  「特に問題なのは、あなたの部隊ですわ」  呆れたように、  「『捨てられ人形』シャロン・キャンベル、『偽りの天才』ユリウス・フォン・ギュンター、そして『隻眼の魔王』オグマ・フレイブ……何ともまあ豪華なメンバーだこと。でも、問題はそこではありませんわ」  フローレンスは目を細める。  「あなた方の任務は何ですの? それを教えてくだされば、見逃してあげてもよろしくてよ。喋らない場合は腕をへし折りますわ」  シャロンは無言を通す。無言でフローレンスをにらみ続ける。フローレンスはため息を吐いて、  「強情ですわね」  言いつつ、微塵の躊躇いもなく腕に力を込めた。捻り上げられたシャロンの腕から、鈍い音が響く。シャロンの顔が苦痛に歪み、額に脂汗が浮いた。それを見て、フローレンスは微笑んだ。  「まずは手始め。肩を外しただけですからご安心を。声も上げないというのは、よく訓練されている証拠。大したものですわねぇ」  感心したように言いつつ、フローレンスは質問を繰り返す。  「それで、あなた方の任務はなぁに? 言ってごらんなさいな」  シャロンは顔を歪めたまま、唇を開いて小声で何かを言った。  「ん? なぁに?」  フローレンスはその声を聞き取ろうと、シャロンの顔に耳を寄せる。と、シャロンがフローレンスの顔に唾を吐いた。  「あなたのような下賤の者に、言うことなど何もありませんわ……!」  憎憎しげにそう言う。フローレンスは無言で顔についた唾を拭う。しかし、その顔は嘲弄するような微笑を浮かべている。  「下賤の者、ねぇ。まぁ、木星の貴族様から見れば、私も平民ということになるのかしら? でも、それを言ったらあなただって同じでしょうに」  「黙れ」  シャロンは低く唸った。それを見て、フローレンスは心底楽しそうに続きを言う。  「確かにあなたは遺伝学的に見れば、ラビニア・フォン・クォーツの娘であり、ネリィ・フォン・クォーツの娘ですわ。でも、あなたのお名前はシャロン・キャンベル。シャロン・フォン・クォーツではない。それは何故なのか? 庶子だから、なんて貴族社会ならよくある話だけど、あなたの場合は違う。その理由は、あなたがコーディネイターだから。いえ、少し違いますわね……あなたが」  と、フローレンスは一旦言葉を切り、皮肉げに唇を吊り上げた。  「ラビニア・フォン・クォーツの『人形』だから。持ち主に見向きもされない『捨てられ人形』だから」  「黙れ!」  シャロンは叫ぶ。叫ぶだけで何も出来ない。そんな彼女の悔しそうな顔を見下ろして、フローレンスは満足そうに頷いた。  「『捨てられ人形』なんて肩書きの割にはいい表情をしますのね、あなた。私、そんな顔を見るのが三番目ぐらいに好きなんですのよ。悪趣味なんて仰らないでね? あなたを作った女に比べればマトモなつもりですから」  その言葉に、シャロンはカッと目を見開いた。今まで一番大きな声で、噛み付くように叫ぶ。  「黙れ! 貴様、母様を愚弄するつもりか!?」  並の人間ならそれだけで怯んでしまうほどの、怨嗟に満ちた絶叫。しかしフローレンスは怯むどころか、愉悦の笑みを浮かべるのみである。  「分かりませんわねぇ。あんなことをされておいて、まぁだ母様母様って……ん?」  と、フローレンスは何かに気付いたように眉をひそめると、空いた左手をシャロンの胸元に差し入れた。シャロンが反応するよりも素早くロケットペンダントを掴み、首にかかった鎖を引きちぎる。  「返せ!」  「ちょっと見せてもらうだけですわ……って」  と、フローレンスは少し唖然としたような表情を浮かべた。ロケットの中に収められた、ある女性の写真を見て。そしてフローレンスはその顔のまま写真とシャロンの顔を見比べ、不意に「ぷっ」と吹き出した。  「あはははは、こいつぁお笑いだ、滑稽だなアホらしいな馬鹿みたいだな、でもそれ以上に傑作だよあんた。何の冗談だこりゃ、え、人形ちゃんよ?」  「返せ! 薄汚い手でそれに触るな、この蛆虫野郎!」  お互い、違う理由で口調が素に戻っている。そして、やはり違う理由でお互いそれに気付かない様子だった。  「理解できねぇなぁ人間って。随分長いこと活動してきたけどさ、そんなアタイから見てもちょっとっつーかかなり頭おかしいと思うよあんた。一度病院に行って脳味噌見てもらった方がいいんじゃない?」  ロケットペンダントをぶらぶらと揺らしながら、フローレンスは楽しくて楽しくて仕方がないというように、シャロンを押さえつけたまま体を揺すって笑った。シャロンは血が流れるほど強く唇を噛んだ。肩を外されても動じなかった瞳に、涙が浮かんでくる。フローレンスは笑いを収め、むしろ哀れむようにシャロンを見下ろした。  「……何とも屈折してるねぇ。あんたがあの単細胞のネリィの妹だなんて思えないよ。ま」  と、フローレンスは器用に肩を竦め、  「コーディネイターなんてこんなもんか。人間に生まれる前から役割持たせようってのがそもそもの間違いなんだな、きっと」  そして、「さて」と呟き、ロケットペンダントをコートのポケットの中に突っ込んだ。  「悪いけど、アタイもちょいと忙しくてねぇ。いつまでもあんたとお喋りしてる暇ないのよ。まぁ、本社に連れ帰りゃハワードの変態ジジィ辺りが愉快な手段であんたの口割らせてくれるだろうから、ちょっと同行ねが……」  言いかけて、フローレンスは不意に表情を緊張させ、勢い良くその場から飛び退った。唐突に自由になったシャロンもまた、ほとんど反射的に転がり、その位置から離れる。  次の瞬間、何かが砕け散る音が辺りに響き渡った。  「……かわしたか」  第三者の呟きが聞こえる。フローレンスは素早く立ち上がり、体勢を整えながら振り返った。  状況を確認する。先ほどの音の発生源は、地面だ。アスファルトで舗装された道に、亀裂が走っている。その中心に、一人の人間がいた。四建てのビルの屋上から飛び降りつつ、拳を舗装された地面に振り下ろし、アスファルトに亀裂を走らせる存在を人間と呼べるのなら。  「……おいおいおいおい、冗談だろ?」  フローレンスは笑った。先ほどとは打って変わって、かなり引きつった笑みだった。  「ちょっと遊んでたら、とんでもねぇ大物がかかっちまったじゃねぇか」  呟くフローレンスを横目に、彼は拳を地面に打ちつけた姿勢のまま、嬉しそうに唇を吊り上げた。  「俺の勘は相変わらず確かだな。お前のような壊れにくい奴がいると、俺に教えてくれる」  言って、ゆらりと身を起こす。拳から、アスファルトの破片がぱらぱらと地面に落ちる。しかし、頑丈そうな拳自体には、傷一つついていない。  長身の男だった。全身から闘気だか殺気だか狂気だか、何と表現していいのか分からない、禍々しいものを放っている。男は左眼に好戦的というよりは愛戦的とでも言った方がいい激しい光を浮かべ、じっとフローレンスを見た。  「女か。今までも何人か驚くほど壊れにくい奴がいたが、女がそれだったのは初めてだな。まあ驚くことでもない。俺はむしろ感動している。お前は俺が今まで会った人間の中で一番、物理的に壊れにくそうだ。お前のような奴がいるとは、宇宙は広いものだな」  独り言のような言葉は平坦で、ほとんど抑揚がない静かなものだったが、どこか興奮しているような響きを含んでいた。フローレンスは少し皮肉げに鼻を鳴らし、  「人間、ね。まあいいけど。アタイはあんたのこと、よく知ってるよ」  「ほう」  「『隻眼の魔王』オグマ・フレイブ、だろ? そこのお人形さんよりずっと有名だよ、あんた。『白い殺人鬼』クレア・ヒースロー、『血まみれ』ルナ・シーン、その辺の連中と一緒くたに語られる、前の戦争が生み出した化け物の一人だ」  ある種の賞賛の意すらこめられた言葉。しかしオグマは退屈そうにそれを聞いている。  「知らんな」  「ああ。そういうことに興味がないってのも知ってる」  「どうでもいい」  「で、どういったご用件で? そちらのお人形さんを助けにきたのかしら?」  オグマはちらりと、二人から少し離れた壁に寄りかかっているシャロンを見たが、興味なさげに視線を戻し、  「知らんな。俺にとって興味があるのは、キサマがどれだけの時間、俺の前でそのままの形を保っていられるか。その一点だけだ」  「ふーん。まあ、人の興味にケチつけるつもりはないけどさ」  言いつつ、フローレンスはコートの中に隠し持っていた、巨大な拳銃を引き抜いた。  「お喋りしてる間にこっちの準備は万端だ! テメェこそぶっ壊れやがれ!」  叫びながら引き金を弾く。正確に頭部を射抜く弾道。一瞬後、オグマは頭から血を噴出して倒れている……はずだったが、  「……嘘だろ」  フローレンスは呆然と呟く。硝煙の晴れた先、オグマは先ほどとほとんど同じ姿勢でその場に立っている。握った右手を、顔の正面に上げて。  「漫画じゃねぇんだぞ……ありえねぇって。銃弾を手づかみだぁ!?」  答えるように、オグマはにぃっと笑って右手を開く。弾丸が地面に当たって無機質な音を立てた。  「……一応、説明しておこうか」  立ち尽くすフローレンスに向かって、オグマは楽しげに語りだす。  「俺は、壊れにくそうな奴にあったときはそいつを観察して、記憶に留めておくようにしている。壊れる前と壊れていく過程と壊れた後。全ての姿を正確に覚えて正確に再生するためにな。お前が言う『お喋り』は、観察時間の暇を潰すためと、相手の動きを止めておくためのものだ。そうでないと、せっかちな奴がじっくり観察する間もなく突っ込んでくる。それは実に良くない。だから壊したくてうずうずしていても、必ず二分間は相手を観察する」  「……寡黙だって聞いてたのによく喋ってたのは、時間を確保するためって訳ね」  「俺の体内時計は実に優秀だ。百分の一秒までなら正確に計測できる」  「そりゃ便利だな。陸上競技場にでも行ってストップウォッチになってこいよ」  「さて、ゴングが鳴るまであと五秒。お前は何秒で、どんな風に壊れてくれるかな……?」  オグマはその異名を体現するのような、壮絶な笑みを浮かべる。舌打ちしたフローレンスが格闘の構えを取ると同時、  「カン」  冗談のような呟きと共に、オグマは正面から突っ込んできた。